第1話 境界突破(リミット・ブレイク)
ヘレナ・クライシス視点
かつて、私は《MI6魔族対策特務課》に所属するエージェントだった。
人間と魔族の境界線を守る、歪な秩序の番人。
矛盾と裏切りに満ちたこの世界で、私は“正義”を信じていた。
あの人、アルだけは、信じていた。
でも、冥界が崩れ始めたのは、あの日からだった。
《ロンドン 魔族収容施設・ZONE F》
「……どうして、あなたが?」
震える声を出したのは、私の妹リーゼだった。
彼女はかつて私が魔族狩りの任務中に誤って殺したはずの存在。
だが、その眼差しは確かに、生きていた頃のまま私を見つめていた。
「ねえ、お姉ちゃん。あたし、殺されたのに、また殺されるの?」
その一言が、私の中の“正義”を壊した。
冥界コードによる“友引”――死者が蘇り、現世の人間をあの世へ引きずり込む禁呪。
本来、冥府の王・ハデスによって封印されていたはずの魔術。
なのに、誰かがそれを解いた。
《冥界層・境界断層域》
ヘレナは、ひとり《黄昏の地下宮殿》に降り立っていた。
そこは冥界と現世の“最も曖昧な場所”。
彷徨える魂たちの呻きが、耳の奥にこびりつく。
「リーゼの魂は、ここにはいなかった。あれはただの影……残滓だった……」
わかっているのに、希望に縋ってしまった自分が許せない。
あの日、MI6の本部は私に命じた。「妹の亡霊を撃ち殺せ」と。
それは二度目の殺人だった。心を殺す任務だった。
「……アル。あなたも、私を撃つの?」
《現在・ロンドン市街》
不審な蘇生事件が多発し始めたのはその直後だった。
アイルランドでは戦死した兵士が村を占拠し、
東京では火災で亡くなった少女が両親を炎に巻き込んだ。
ニューヨークでは自殺者が街を徘徊し、“生者を連れて逝く”とSNSで話題になった。
そのどれもに、冥界コードの干渉波が観測された。
《黄昏の地下宮殿・封印の間》
「ここが、境界を破るための鍵……」
ヘレナの指先が、朽ちた祭壇の上の“黒きレコード”に触れる。
それは禁忌の楽譜“アンデッド・レコード”。
死者の魂を“曲”として支配する冥界の兵器。
「リーゼ。もう一度、あたしがあなたを見つけ出す。今度は、殺さない……」
その願いは、祈りではなく呪いとなり、世界を染め上げる。
こうして、“冥界の境界”は破られた。
すべては、妹を取り戻すために。
たとえこの世界が、死で満たされようとも
※この時点では、誰もまだ気づいていない。
《黄昏の地下宮殿》の封印を解いたのが、元MI6のエージェント
ヘレナ・クライシス本人だったことを。
MI6も異常を察知した。
彼らが送り込むだろう、あの男を。
アルことアイゼンハワード。
死に損ないの、頑固なスパイ。唯一、ヘレナが心を預けかけた男。
「はやく来て、アル。もう一度、あの“選択”の続きをしましょう」
彼女の声が、コードに乗って揺れる。
《アンデッド・レコード》。冥府の記録を操る、彼女の禁忌の能力が、静かに発動する。
境界突破、開始された。




