プロローグ 冥府の境界線
ここは冥府。
死者たちの魂が行き着く終の場所、“ネクロ・ライン”。
その中心、“終律廷”の玉座に、王はいた。
「境界が……軋んでいる、だと?」
冥界王ハデスの眼差しが闇の帳を貫いた。
彼の前にひざまずくのは、報告官の魂
「現世との境が曖昧になり、死者たちが引き戻されております。しかも、彼らは“自我”を保ったままです」
「……友引か」
かすれた声で呟くと、王は重く立ち上がった。
古の禁忌が、何者かによって破られつつある。
「誰がやった」
「ヴェールです、《ヴェール》が“冥界コード”の封印を解いた模様」
その名を聞いた瞬間、ハデスの背後の玉座が一瞬だけ軋んだ。
“ヴェール”冥府と異界にまたがる非公認の悪の諜報組織。
死者を再プログラムし、情報兵器として扱う影の機関。
彼らにより世界は静かに、確実に狂い始めていた。
ロンドン・ハイドパークでは早朝、死んだはずの元上院議員が記者会見を開き、自らの死を否定。
モスクワでは軍の機密倉庫が元兵士たちに襲撃され、その映像には明らかに戦死報告済みの顔が映っていた。
東京・六本木のクラブでは、亡くなったアイドルがステージに立ち、観客を昏倒させた後、煙のように消えた。
各国の諜報機関が秘密裏に“死者の再出現”を調査し始めたが、共通していたのは「死者が生者を冥界へと引きずり込む」不可解な現象、通称“友引現象”。
その事件の背後に浮かび上がったのが、冥界に存在するとされる異界諜報機関そして、それら一連の現象は“冥界コード”という未知のシステムの起動によって引き起こされたものだった。
世界の異常事態に対応すべく、MI6・対異能特務課が動く
時を同じくして、現世・ロンドン。
MI6対異能特務課の地下通信室。
赤い警告灯が回り、管制士たちが騒然としていた。
「まただ!東京・上野、死亡確認されたはずのOLが家族の前に現れ“ここはまだ寒いわ”と呟いて消えた!」
「パリでは、死んだはずの画家がルーブルに出現し、展示作品の一枚を“私の作品にはない色だ”と言って盗んだ!」
「バンコクの国際空港では事故死したサッカー選手の霊がファンに取り憑き、“一緒に来て”と叫びながら、20人が昏睡状態に陥った!」
人々はこの奇現象を「友引の災厄」と呼び始めていた。
死者が愛した者、忘れられなかった者を現世へと“引こう”としているのだ。
そこに、黒いスーツに赤いスカーフ、ワインレッドのマントを翻す男が現れる。
「……また世界の危機だな。」
アイゼンハワード・ヴァル・デ・シュトラウス
魔族貴族でサターンの血を引くMI6最古参のエリートスパイ。
だがその眼差しは、かつての恋人の名を聞くたびにわずかに陰った。
「任務確認。“冥界コード”の無効化と、《ヴェール》の解体。」
彼は立ち上がり、シルバーの懐中時計を開く。
針が、冥府と現世の狭間で、静かに逆回転を始めた。
「では任務内容を確認しようか。
……死者の世界に潜入し、悪の組織と対峙する。ふむ、これはロマンスの香りがするわい。」
その背にマントを翻し、アルおじは微笑む。
新たな作戦名:
『冥界より愛をこめて(From Hades With Love)』
死者の手を握りしめる前に、世界を救え。




