【最終話】 正気と狂気のはざまで
世界は、再び“意志で歩める場所”となった。
アカシックコードの束縛が解かれ、ヴェイラスの残滓は虚無へと還る。
斬罪の魔剣ギロティーナが裂いたその一閃は、狂気の神の意志すらも断ち切った。
そして、静寂が訪れた。
黙示の尖塔の塔跡に、薄明かりが差し込む。
赤く染まった空が、ようやく夜明けを迎えようとしていた。
「……終わったの?」
リーディアが、震える声でつぶやいた。
「いや、まだ始まったばかりだよ」
そう答えたのは、佑奈だった。血と涙に濡れたその顔には、確かな微笑みが宿る。
アイゼンハワードは、倒れたヴェイラスの残骸を見下ろしながら、剣を地に突き立てる。
「暁の密約は……履行された。精神兵器は、再封印に成功した。これで、二度と世界が狂うこともない」
リーディアが、ふっと笑う。
「じゃあ、あたしは戻るよ。まだ探さなきゃいけない。あたし自身の“正義”ってやつをね」
佑奈も頷く。「私も、帰る場所がある。……少しだけ、立ち止まっていたくないから」
アイゼンハワードは二人を見渡し、力強く言う。
「……俺は、世界を歩く。罪と正義の間をな。……また、どこかで」
三人は、それぞれの道へと歩き出す。
遠ざかる背中に、風が吹く。
誰かが、手を振った。誰かが、それに応えた。
それだけのことなのに、胸が熱くなるのはなぜだろう。
世界にはまだ、答えきれない“問い”が残されている。
だが、それを抱えたままでも、人は歩ける。
意志のままに。
精神兵器が封印され、戦火が鎮まった世界。
崩壊しかけた「理」の地平線の上に、静かな朝日が昇り始めていた。
霊媒師ユナのその後「声なきものと、共に」
ユナは戦いの後、祖母の形見でもあった霊庵へと戻った。
人々が失った“魂の声”を取り戻すため、静かに祈りを捧げながら、小さな依頼を受ける日々を過ごしていた。
しかし彼女はもう、ただの霊媒師ではない。
彼女の中には、かつて精神兵器が記録していた無数の“魂の軌跡”が共鳴していた。彼女の語る言葉は、失われた者の「記憶」を照らし、世界の深層へと届く“真実の祈り”と呼ばれるようになっていった。
その姿を、人々は尊敬と畏怖を込めてこう呼んだ。
“夢を継ぐ巫女”。
彼女はいつかまた「誰かのために、語り継ぐ」と静かに誓いながら、今日も一人、ろうそくに火を灯す。
ゼロの器・リディアのその後「風はまだ、私の中にいる」
リディアは過去の戦いの記憶をほとんど失っていた。
だがその胸の奥に、ひとすじの“風”がずっと吹き続けているのを感じていた。
彼女は辺境の町で、風車の修理士として穏やかな日々を送りながら、時折、空に手をかざす。
「……この風は、私じゃない。だけど、私でもあるの」
過去の記憶に怯えることも、抗うこともやめた。
彼女は、自分の中に眠る《ゼロの器》の欠片とともに、ただ“今”を生きている。
ある日、リディアは少女に風車の回し方を教えながら、ふと空を見上げた。
「ねえ、お姉ちゃん。この風、なんだか泣いてるみたいだよ」
「そうかもね。でも……泣いても、また吹いてくれる。それが、風だよ」
彼女は微笑んだ。
その笑顔には、かつて「ゼロの器」と呼ばれた面影は、もうなかった。
それでも、風は知っている。
彼女が今も、“世界を変えた風”の中心にいたことを。
『アイゼンハワードの魔族のおっさんはつらいよ9ー暁の密約』
ー完ー




