第9話 黙示の神殿 ― 罪の迷宮
空は、裂けていた。
まるで神の怒りが世界に刻まれたように、大気が悲鳴をあげている。
霊的構造が崩壊し始め、現実が軋む。時間と空間、理性と狂気の境界が溶け合い、空間そのものが"精神世界"に変質していく――その中心で、総本山《聖寂の門》が、巨大神殿のような姿に変貌していた。
その玉座に座すのは、大僧正ヴェイラス。
いや、もはや彼は人ではなかった。
彼の姿は、すでに宗教的偶像へと変わり果てていた。
幾億の信徒の祈りが結晶化したような光背を背に、瞳には感情が宿っていない。無数の思念体が身体から浮遊し、天井や床、柱までもが脈打つように“彼の思考”と同期している。
「ようこそ、“審判”の間へ」
声は低く、しかし絶対の慈愛を装っていた。
だがその実、微塵の赦しも含まない冷たさに満ちていた。
突如として、アイゼンハワード、リディア、ユナの三人の意識が分断される。
全員が、別々の「精神の迷宮」に囚われたのだ。
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ユナの迷宮《水鏡の告解》
ユナは、鏡に囲まれた空間にいた。
どの鏡にも、別の「自分」が映っている。
笑っているユナ、泣いているユナ、怯えているユナ、嘘をついているユナ――
だが、どれも本物だ。
「あなたは死者を“慰める”と言いながら、心では“利用”してた」
「救いたいんじゃない。あなたは“赦されたい”だけなんだよ」
「違う……私は……!」
霊媒として、彼女は何度も亡者を導いてきた。だがその裏で、
“見えすぎる”力に怯え、何度も誰かを拒絶し、時には嘘を重ねた。
母の魂を閉じ込めたのも、あの時自分の意志だった。
鏡の中のユナが、涙を流して微笑む。
「大丈夫。私たち、ずっと一緒よ。偽りのままで」
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アイゼンハワードの迷宮《血宴の回廊》
「……なに、ここは……」
重厚な絨毯を踏みしめる音。
かつての魔界貴族の館を思わせるその空間には、至る所に生首と血の香が漂っていた。
壁には肖像画が飾られている。
かつてアイゼンが殺めた者たち――人間たちの顔が、口を裂いて彼に問う。
「お前は覚えているか? 我が子を焼いた時の悲鳴を」
「笑っていたよな? 公爵様。子供の頭を割ったその夜」
「“正義の制裁”と称して、我らを切り捨てたよな」
「やめろ……俺は、そんなつもりで――!」
懺悔は通じない。
この迷宮は“魂の奥底”に直接語りかける、過去の真実そのもの。
かつて魔界の伯爵として人間界を侵略し、「浄化」の名のもとに数千を虐殺した事実。それは義憤でも、任務でもなく、彼自身の中にあった“高慢さ”と“恐怖”ゆえの選択だった。
白髪が汗で額に張り付き、膝が震える。
誰より優雅に見せてきた男の仮面が、血の中に崩れていく。
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リディアの迷宮 《崩壊の村》
リディアの前に現れたのは、崩壊する小さな村の風景。
弟・キールが瓦礫の下敷きになり、泣きながら手を伸ばしていた。
「ねえちゃん、助けて……!」
「ごめん……走らなきゃ、今助けを――」
「ねえちゃんっ、どこ行くの……!?」
リディアは振り返らなかった。助けを呼びに走った。だが戻ったとき、弟はもう息をしていなかった。
「お前は正義の戦士などではない。お前は見捨てた。臆病者だ」
「……うるさい……」
「自分の弱さから逃げた。そして今も、あの声を夜ごと聞いている」
「うるさいって言ってるのよォッ!!」
彼女が叫んだ瞬間、神殿の床に亀裂が走った。
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大僧正ヴェイラスは三人の中心に立ち、両腕を広げる。
「罪は、消えない。贖いは、届かない。許されることなど」
「あるさ」
アイゼンハワードが、ゆっくりと立ち上がった。目元には皺、だがその瞳は紅く、燃えていた。
「罪は背負うものだ、坊主。誰もが間違う、だがな。間違いを悔いる者を、私は見捨てない」
「アルおじ……!」
「俺の名はアイゼンハワード・ヴァル・デ・シュトラウス!この命、貴様の“審判”なんぞで散らしてたまるか!!」
リディアも立ち上がる。
「私は、弟の分まで生きる。何度も、何度もやり直して、ようやくここまで来た!」
ユナも頷く。
「私は臆病だった。でも……今度こそ、守る!私が選んだ仲間を!」
神殿が震えた。
ヴェイラスの眼が、僅かに揺れる。
「……ならば、審判の儀式を始めよう」
彼が両手を掲げると、光と闇が交錯する巨大な魔法陣が宙に浮かび――
最終試練が幕を開けた。




