第2話 コウベーの赤い影
コウベー港の夜は、霧に沈んでいた。
湾岸のコンテナ群が照明の中で不気味に浮かび、風のない空気に、どこか人工的な静けさが漂っている。
そこに、一人の男が立っていた。
アイゼンハワード。かつて世界の危機を救ったMI6の諜報員。
コートの襟を立て、無言で貨物船「アーキテクトIV号」を見上げていた。
この港には、通常の物流に混じって“何か”が運ばれている。
その“何か”が、人工衛星の連続消失事件と結びついている。
そう確信したアイゼンは、かつての協力者へと連絡を取っていた。
「……久しぶりだな、キャシー」
「老けたわね、アイゼン。だけどまだ、声は鋼みたい」
赤い髪の若い女性が、港のクレーン操作室で振り返った。
キャサリン・ケイン。元NSAの天才ハッカー。
政府機関から逃れ、いまは影の中で生きている。
彼女の端末には、「WALDER」という名が点滅していた。
それは国際的なサイバー傭兵組織――だが、ただのハッカー集団ではない。
宇宙技術、軍事ロジスティクス、そして何より「軌道妨害兵器」の開発に関与しているという。
「この船が神戸から打ち上げた“ロケット”軌道上の何かを壊すためのものだった。座標データもある。全部、WALDERが動かしてるわ」
「やはり、そうか」
「だけど、あんたに渡すにはリスクがある。WALDERは私をマークしてる。九条イサムも、ね」
その名を聞いた瞬間、アイゼンの目が細くなる。
九条イサム。かつての同僚。
日本情報庁(旧公安外事)出身の諜報員であり、現在はWALDER幹部。
アイゼンの最大の失敗、それは九条を“裏切らせた”ことにあった。
「やつが、まだ生きてるのか」
「彼はもう“人間”じゃない。コードネームは《シルバー・ミラー》。組織の対AI戦術指揮官よ」
「……悪趣味な名前だ」
その時、警報が鳴った。
すでにWALDER側は、アイゼンとキャサリンの接触を察知していた。
「時間がない、船に潜入するぞ」
船体の側面に取り付けられた古びたハッチをこじ開け、内部へ。だが、そこに待っていたのは予想以上の罠だった。
次の瞬間、アイゼンの首筋に何かが突き刺さる。
床が沈み、無数の赤外線が交差する空間に転落。スタンガスが噴き出し、視界が白く染まった。
「くっ!」
目覚めた時、アイゼンは冷たい床に横たわっていた。両手は拘束具に固定され、周囲には機械的な音と、無機質な照明だけがあった。
「よく来たな、MI6の亡霊」
スピーカーから聞こえたのは、九条イサムの声だった。
「“コード・オキナワ”……貴様には理解できまい。我らが目指す“調和”を」
「調和だと? それが軌道上の殺戮か」
そのとき、ドアが破られた。
「おまたせ!」
キャサリンだった。彼女は自作のEMPフラッシュを炸裂させ、ドローンを無力化しながら飛び込んでくる。
「走って!」
だが、廊下で警備ドローンの機銃が作動する。
キャサリンはアイゼンを背に押し出し、自らはその銃弾に倒れた。
「……バカね、もっと……ちゃんと逃げなさいよ……」
赤い髪が血に濡れ、彼女の身体が冷たくなっていく。
アイゼンはその手を握りしめ、唇を噛んだ。
「借りは、必ず返す。キャサリン」
彼は荷電パルスで扉を焼き切り、船倉に残されたデータサーバーを確保すると、燃え落ちる天鋼丸を背に脱出した。
港の夜は赤く燃えていた。
その影に、九条イサムの黒いシルエットが浮かび上がっていた。




