第3話 消えた考古学者と謎の女
ロンドンは、ちょうど夕暮れを迎えていた。
濡れた石畳に西陽が鈍く反射し、霧混じりの風がテムズ川をゆっくりと撫でてゆく。
その街を、黒いトレンチコートに身を包んだ男が歩いていた。
アイゼンハワード。血塗られた伯爵として恐れられた魔族にして、今や一人の隠居老人。しかしその目は衰えていない。すれ違う人の顔を無意識に分析し、足音の遠近で敵意の有無を測る。老いてなお、鋭利な刃のような男。
「……ふむ、やはりこっちへ来ておったか」
老人の目が、橋の向こうに浮かぶ一人の男をとらえた。
テムズ川越しに見えたのは、スーツ姿のジェームズ・ウィンチェスター。久美子の夫であり、職業は考古学者のはずだが、どうにも怪しい動きが続いていた。
「この時間に単独行動。しかも家には“学会”と言って外泊……まったく、婿殿とはいえ胡散臭いのう」
アイゼンは川を渡り、気配を殺してジェームズを尾行しはじめる。
ジェームズは人気の少ない裏通りを抜け、古びた煉瓦の建物裏に姿を消した。
アイゼンも物陰に身を潜めて様子をうかがう。
しばらくして
「……女か?」
ジェームズの前に現れたのは、長い黒髪の美しい女性だった。
高級な黒のジャケットに身を包み、すらりとした長身。まるで女スパイのような雰囲気をまとっている。
(なんじゃ、浮気か? あれは……妙に親しげな空気じゃな。こら久美子が泣くぞ)
だが次の瞬間、アイゼンの予想は覆された。
「伏せろ!!」
女が叫ぶと同時に、ジェームズの周囲に複数の黒ずくめの男たちが現れた。
手際よくジェームズを押さえ、電撃のような何かで気絶させ、あっという間に車へと連れ去っていく。
「な、なんじゃ今のは!? これは……浮気どころではないのう」
アイゼンが追おうと一歩を踏み出した、
そのとき
「追っても無駄よ。あの連中は、あなたが思っているよりずっと厄介」
冷たい声が背後から届く。
老人が振り向くと、そこにはさきほどジェームズと会っていた謎の女性が立っていた。
「おぬし……何者じゃ?」
女は静かにバッジを差し出す。
MI6イギリス情報局秘密情報部。
「私はレイラ。MI6の対異能特務課所属。そして、あなたを迎えに来たの」
「迎えに? わしをか? ……なぜわしのことを知っておるのじゃ?」
レイラは表情を変えず、淡々と答える。
「あなたの戦歴は、世界中のインテリジェンスに記録されている。
中東、東欧、そして極東の紛争地帯。姿を消したと思われていたが、引退後も一部では“生ける伝説”として調査対象だった」
アイゼンは鼻を鳴らす。
「生ける伝説、のう……便利な言葉じゃ。ま、悪い気はせんがな。で、婿殿はなぜ攫われた?」
「それも含めて、これから話すわ。場所を移しましょう。あなたには知る権利があるし、戦う義務もね」
アイゼンはその場で短く息を吐くと、ひとつだけ心の中で呟いた。
(戻ってこなかったら許さないからね。晩ごはん抜きよ)
出かける前、幸子に言われた言葉だった。
「……まったく、世界の危機じゃ仕方あるまい」
老人の背筋がピンと伸びた。
その瞳は、再び戦場に戻る男のものだった。




