第2話 霧と紅茶とロンドンの罠
イギリス ロンドン。
そこは石畳と赤いバスと霧と歴史、そして紅茶の香りが混ざりあう都市。
魔族の老紳士・アイゼンハワードは、王族のようなオーラをまとってヒースロー空港に降り立った。
「ふむ……やはりここの空気は良い。霧が魂に沁みこむわい」
「イミグレで魔界のパスポート出しそうになってたくせに、よく言うわよ……」
幸子は苦笑しつつも、どこか楽しげに夫の背中を見ていた。
空港の出口では、娘・後藤久美子が手を振って待っていた。
その腕の中には、小さな命の生後3ヶ月のエリザベス(通称エリィ)がくるまれている。
「ママ~!パパ~!こっちこっち!」
「いやあ、あんたが母親になるなんてねぇ……世も末だわ」
「失礼な!」
娘と母の軽口の横で、アイゼンハワードは言葉を失っていた。
彼は、エリィを見つめていたのだ。
ふくふくとした手足、やわらかな産毛、そして不思議な光を湛えた瞳。
その存在だけで、時間がゆっくりと流れているようだった。
「……これが、あらたな孫か……」
アイゼンハワードはそっと指を伸ばし、赤ん坊のほっぺをつついた。
エリィは「ふぎゃ」と叫んで、笑った。
「うむ……よい。とても、よい。これは良い孫じゃ……」
「なにその評価基準!」
久美子が笑い、幸子も「まったくおっさんってやつは……」と呆れながらも、どこか嬉しそうだった。
その日の夕暮れ、久美子の住むロンドン郊外の一軒家では、ささやかな歓迎ティーパーティーが開かれた。
銀のティーポットから注がれるアールグレイ。
フィッシュ&チップスの香ばしい匂い。
そして、孫を囲んでの賑やかな団らん。
だが。
「ねえ、ママ……」
風呂上がりの赤ん坊をタオルで包みながら、久美子がぽつりとつぶやいた。
「夫のジェームズの様子、最近ちょっとおかしいのよ」
「……浮気か?」
「それなら、逆に気が楽なんだけど……。あの人、出張って言っても携帯通じない日が多くて。
帰ってきても何か隠してる感じがする。……最近、夜中にこっそり誰かと会ってるみたいなの」
その言葉に、幸子の顔色が変わった。
「……まさか、ヤバい仕事してんじゃ……」
だが、その隣で
すでにアイゼンハワードが静かに立ち上がっていた。
「尾行、か……」
彼の目が、鋭く光った。
「ふむ、久々じゃの……かつて魔界で百の刺客を影から捌いたこのわしの尾行術、“死角歩法”。……今でも通用するか試す時が来たようじゃな」
「おい!まだ孫と遊んでる途中でしょ!」
「やめときなさいよ!あんたが尾行したら霧が爆発するわ!」
「黙っておれ。家族に危機があるなら、わしが動く」
その言葉に、幸子は言い返せなかった。
「……ねえ、本当に気をつけて。イギリスの裏社会は、日本や魔界とはちょっと勝手が違うわよ」
「ふん、霧の奥で蠢くものなど、見えぬようで見えるものよ。魔界の貴族にとっては、むしろ歩きやすい。闇こそ我が舞台じゃ」
「……」
幸子は、夫の後ろ姿を見つめながら、不安を押し殺すように言った。
「戻ってこなかったら許さないからね。晩ごはん抜きよ」
「はっはっは! よいぞ、それが一番こたえる罰じゃわい」
そう言って、魔族の老紳士は霧の街へと消えていった。
その姿は、夜のロンドンの街にすうっと溶け込むようだった。
ロンドン塔の鐘が、どこかで静かに鳴っていた。




