第10話 感情の練習と人間観察
逃亡の最中、アルとさっちゃんは小さな村に辿り着いた。
その村は山間のほとりにあり、街道から離れているせいか魔王軍の手も届かない“忘れられた地”だった。
アルは言った。
「ここで少し休もう。ついでに、“観察の練習”もするぞ」
「……かんさつ?」
「そう。人間の“感情”を見て、学ぶんだ」
村には市が立ち、子どもたちが走り、老婆が干し野菜を並べていた。
酒場では酔っぱらった男たちが笑い、若者たちは声をひそめて恋の話をしていた。
さっちゃんは、そのひとつひとつを見つめた。
皺くちゃな老婆が笑うと、目尻に深い線ができる。
男が怒ると、手が震え、声が荒くなる。
少女が泣けば、周囲の人間はすぐに駆け寄って慰める。
「……表情が変わるんだな」
「そうだ。人間は感情によって、顔も声も動きもすべてが変わる。
それがコミュニケーションになる」
「でも、なぜそんなことを……」
「感情は人をつなぐ道具だ。怒ることで自己を守り、悲しむことで傷を癒し、笑うことで関係を築く。
感情は、“どう生きるか”を決めるためにあるんだ」
その夜、村の広場で即興の祭が開かれた。誰かが酒を持ち寄り、誰かが太鼓を叩き、子どもたちが踊った。
アルは言った。
「さっちゃん、おまえも踊ってこい」
「無理だ。そういうのは――」
だがそのとき、子どもたちのひとりがさっちゃんの手を引いた。
「ねえ、お姉ちゃんもいっしょにやろうよ!」
さっちゃんは戸惑いながらも輪に入り、小さく、ぎこちなく、足を動かした。
笑い声の中にいた。汗と歌の中にいた。
気づけば、彼女の頬にはほのかな紅が差していた。
口元が、自然と、ふわりと、笑っていた。
「アル……これが、“よろこび”?」
遠くから見守っていたアルは頷いた。
「そうだ。今、おまえは“喜び”を感じてる」
「……これで揃ったんだな」
「そうだ。怒って、悲しんで、恐れてそして、今、笑った。
おまえはもう、“感情のある存在”だ。さっちゃん」
その夜、星空の下でさっちゃんは初めて、自分からアルに話しかけた。
「もっと、知りたい。もっと、人間のこと。感情のこと」
アルはその言葉に微笑み、言った。
「よし。じゃあ次は、“感情を使って何かを選ぶ”練習をしようか」
旅は、まだ続く。
けれどさっちゃんの中に芽生えた“心”は、確かに前へと進んでいた。




