エピローグ 風の名も、記憶に残れば
夜の縁側。
ひとり、老いた男が座っている。
静かに、手の中の紅茶を見つめながら
かつて抱きしめた、あの命の温もりを思い出していた。
「アル……あなたが、人間でも、魔族でも……私は、信じた――」
あの声。
あの夜。
あの鼓動。
倒れたティアラ姫の小さな肩を、何度も呼び戻そうとした自分の手。
咆哮とともに世界が焼け落ちたあの瞬間を
彼は忘れたことがなかった。
「……儂の手は、なにも守れなんだ。
いや、守ったつもりで、結局すべてを焼いたんじゃ」
ポタリ。
一滴、紅茶が零れたのは、手の震えか、心の揺れか。
そのとき、縁側の障子がスッと開いた。
「じいちゃん、まだ起きとったの?」
姿を見せたのは、青年・カズヤ。
アルの血を継ぐ、たった一人の孫。
「……少し、昔の夢を見とっただけじゃ」
「ティアラ姫のこと?」
カズヤの言葉に、アルは少しだけ目を見開いた。
だが、すぐに微笑み、うなずいた。
「そうじゃ。命を捨てさせた女。
いや、それ以上の、儂を“魔族”から“人”にしてくれた女じゃった」
カズヤは黙って隣に腰を下ろす。
空を見上げながら、ぽつりとこぼす。
「俺、昔……久美子さんに本気で恋してた」
「知っとったよ」
「……でも、無理だった。でも不思議と、嫌じゃなかった。
報われなくても、好きになれて、俺、外に出られたから」
アルはゆっくりと目を閉じ、頷く。
「それが……本気というものじゃろうな」
風が吹いた。
静かで、どこか懐かしい
あの日、ティアラが微笑みながら剣を振るった、あの丘の風に似ていた。
「アルおじちゃんも、ティアラ姫さんのこと……今でも?」
「……忘れたことは、一度もない」
そう言って、アルはポケットから一枚の古びた布を取り出した。
小さな刺繍。王家の紋章。
ティアラ姫が最後に手渡してくれた、あの夜のハンカチだった。
「生まれ変わったとしても、また会いたいか?」
カズヤの問いに、アルは微笑んだ。
「会っておるかもしれん。……気づいとらんだけでな」
その夜。
チャイムが鳴いた。
「……ん?」
そのとき、玄関からひとりの女性の声が聞こえた。
「ごめんくださいませ」
玄関に立っていたのは、和装の女性だった。
年齢は五十代半ばだが、その瞳には少女のような強さと優しさが宿っている。
「……ティア……いや、幸子殿か」
後藤 幸子。久美子の母親。
アルは一瞬、時が逆戻りしたような錯覚を覚えた。
あの時の姫、ティアラに、あまりにも似ていた。
「300年ぶりの再会ね、アル」
「今度こそ、本当の恋愛をしましょうね」
彼女の声は、かつてと同じ“風”を運んでいた。
アルは戸惑い、紅茶を注いだ。
差し出す手が、かすかに震えていた。
だが、その手を、幸子がそっと握った。
「私ね、ずっと誰かを待っていた気がするの。理由もわからずに」
「……ならば、わしも同じだ」
カップが触れ合い、ささやかな音を立てた。
記憶は過去に沈み、
恋は風となり、
そして名を持たぬ風は、また、誰かの心を揺らしはじめた。
風はまた、名を持たぬまま、めぐり逢わせる。
『アイゼンハワードの過去編 ―私の愛したティアラ姫』
ー完ー




