第7話 崩壊の鐘
アレルシア王国の議事堂にて、
宰相ガロン・グレイは、密かに一通の密書を封じていた。
【帝国側、動く。開戦は、十日後
東の砦を開門せよ。内側より混乱を
姫の暗殺は不要。代わりに“喪失”を与えろ】
ガロンの目には、一片の迷いもない。
老獪な政治家の顔は、冷たい謀略の影に沈んでいた。
その情報を、すでにアルは掴んでいた。
「……宰相ガロン。敵対国の帝国と通じているのは確実だ」
地下水路を通じて運ばれる暗号文。
通商路と見せかけた兵站の接続。
そして王都内に仕込まれた“反乱用の刻印”。
(報告すべきだ。姫に。王国のために……)
しかし、
姫が宰相を“父のように慕っている”ことを、アルは知っていた。
思い出すのは、あの笑顔だ。
「ガロン様はね、母を看取ったあと、私を育ててくれたの。
血のつながりはなくても……私にとっては“家族”よ」
だから、言えなかった。
「なぜ……俺は、任務を怠っている……?」
アルは自問した。
魔界の命は明確だ。
内通者を利用し、王国を崩壊させよ。
姫の精神と肉体を支配し、国ごと堕とせ。
だが今の自分は、
“宰相を利用する機会”を目前にしながら
ただ、黙っていた。
(俺は、魔族だ。冷酷でなければならない。
なのに、なぜ)
ある日、姫がついに、アルを呼び止めた。
王宮の庭園。
夜の香草が風に揺れ、灯籠の炎が小さく瞬いていた。
「……アル。あなた、最近私を避けているわね」
アルは、微笑んだ。
それは、誰よりも優しい、けれど誰よりも遠い微笑だった。
「お気のせいです、姫」
「そうやって……また嘘をつくのね」
姫の目には、悲しみの影が宿っていた。
「私は……あなたを信じていた。誰よりも。
けれど、あなたの目が、“誰かの目”に似てきた。
昔の、父の側近で裏切った男の、あの目に……」
アルは、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
このまま言葉を継げば、何かが壊れると知っていた。
「姫。
……あなたの側には、もっとふさわしい男がいます」
「それが答え……?」
「ええ」
アルは、深く頭を下げた。
それは、礼ではなく、拒絶の儀式。
姫はそれ以上、何も言わなかった。
ただその場に立ち尽くし、
アルの背が去っていくのを、口を結んで見つめていた。
まるで、もう一度“誰かを失う”ことに、静かに備えているかのように。
そして、その夜。
アレルシア王国の東の境界線で、敵対国である帝国の軍旗が翻った。
全ての“崩壊の鐘”は、静かに鳴り始めていた。




