プロローグ 風はまだ、あの名を運ぶ
封筒の切れ目に、金のナイフを差し込んだ瞬間
アイゼンハワードは、風の音を聞いた気がした。
手紙は、薄く。香りも、さりげない。
だがその中に入っていた写真は、彼の時間を、確かに止めた。
後藤久美子。ウェディングドレス姿。
笑顔で並ぶ男の名を、彼は知らなかった。だが、その表情から、それが
「善い男」であることはすぐに分かった。
よかったな。
心の中で、それだけがぽつりと落ちた。
陽の落ちた東京の空。
高層ビルの谷間、ベランダにひとり座る男。
薄く煙る夜気に包まれながら、彼は冷めた紅茶を指で揺らしていた。
アイゼンハワード・ヴァル・デ・シュトラウス。
かつて魔界の貴族にして、恐れられた“影の将”。
今では「アルおじ」としか呼ばれない、ただの老人だ。
彼は写真を見つめながら、そっと呟いた。
「……うむ。遠くの“いい男“より、近くの“ええ男”……か」
目尻に刻まれた皺が、かすかに緩む。
だがその奥には、誰にも見せることのない影があった。
風が吹く、静かに、静かに。
そして彼の記憶を、再び呼び覚ます。
あのとき、彼はまだ若かった。
若い、というには、既に多くを知りすぎていたかもしれない。
だが確かに、“未熟”だった。
「任務だ」と言い聞かせ、心を押し殺し、忠誠と裏切りの狭間を行き来していた。
そして、決して惹かれてはならぬ者に触れてしまった。
その名は
セーラ・ティアラ・アレルシア。
思い出すたびに胸が軋む。
剣を取る覚悟も、王族の誇りも、人間としての憧れも
あの姫は、何もかもを持っていた。そして、誰よりも強かった。
「……もし、あのとき、私が……」
呟くその声に、自分で首を振る。
“もしも”は、敗者の慰めだ。
それを口にする資格など、自分にはない。
救えなかった。愛さなかった。
ただ命令に背き、そして、逃げた。
それだけだ。
風が、ふいに止む。
写真の角が揺れ、机の端に落ちそうになる。
アイゼンハワードは、静かにそれを拾い上げる。
そして、遠く夜空を見上げる。
星が、ひとつ、流れていった。
願い事はしない。そんな資格は、もうとうに捨てた。
「……ティアラ。姫」
その名を、静かに風に乗せて。
彼の記憶は、静かに幕を開ける。
“かつて世界を裏切った男”と、“その男が命をかけて守った姫”の、誰にも知られぬ過去の物語。
風はまだ、あの名を
ティアラ姫の名を、運び続けていた。




