第4話 ひとり立ちの準備
朝晩の風に、秋の気配が混じりはじめていた。
トキオーでの数日間は、夢のように過ぎていった。
雷門、人力車、上野動物園、六本木そして、あのベランダの夜。
久美子の帰る日が、近づいていた。
最後の夜、アイゼンハワード邸のリビングでは、三人が紅茶を囲んでいた。
いつものように、古い時計の音がカチカチと空間を刻んでいる。
久美子はカップを持ちながら、ぽつりと言った。
「ねぇ、またトキオーに来てもいい?」
カズヤは、しばらく黙っていた。
彼女の瞳はまっすぐで、けれど少し寂しげでもあった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……次は、俺がナゴヤーに行く」
その言葉に、久美子の目がわずかに見開いた。
そして、小さく笑った。
「ほんと?」
「うん。たぶん……そのうち、“部屋”だけじゃなくて、“自分の人生”も出ていかないと、って思ってる」
「いいやん、それ。ナゴヤーは味噌カツと手羽先だけじゃないでね」
ふたりが笑い合うのを見て、アイゼンハワードは紅茶を注ぎながら、低く笑った。
「青春ってのはな、年齢じゃない。女一人に本気になれるかどうかだ」
ふたりは同時に笑ったが、カズヤはその言葉を、胸の奥に静かにしまった。
翌朝。トキオー駅のホーム。
東海道新幹線・のぞみ230号 ナゴヤー行き。
ホームには、スーツケースを引いた久美子と、それを見送るカズヤの姿があった。
久美子はデニムに白いシャツ、ラフな服装だが、どこか旅立つ人の雰囲気が漂っている。
「……じゃあ、またね」
「うん」
「手紙とか書かん人?」
「……LINEでいい?」
「そっか。現代っ子だわ」
そう言って、久美子は少し名残惜しそうに背を向けた。
電車が入ってくるアナウンスが流れ、風が吹いた。
新幹線がホームに滑り込むように到着する。
ドアの前に立った久美子が、振り返る。
「ありがとう、カズヤ。……東京、いい街だった」
その瞬間だった。
カズヤの目から、一筋の涙がこぼれた。
自分でも気づかぬうちに、何かが溢れたのだ。
久美子は驚いたように目を丸くし、次の瞬間、小さくうなずいた。
そして、何も言わず、新幹線に乗り込んだ。
ドアが閉まり、車両がゆっくりと動き出す。
ガラス越しに見える彼女の顔が、遠ざかっていく。
カズヤは立ち尽くしながら、涙をぬぐいもしなかった。
心の中で、確かな何かが動き出していた。
もう、自分は“引きこもり”ではない。
誰かを好きになり、誰かのために動けた自分が、ここにいる。
それが、「ひとり立ち」の第一歩だった。
新幹線が音を立てて見えなくなるころ、カズヤは深く息を吐いて、ホームをあとにした。
その足取りは、昨日よりほんの少し、しっかりしていた。




