第3話 恋と弱さと再出発
トキオーの夜は、湿気を含んだ夏の香りがした。
家のベランダからは、遠くの首都高の赤いテールランプが流れ星のように見えた。
久美子は、薄いシャツ一枚でベランダに出て、ライターで火をつけた。
カチッという音のあと、たばこの先に小さなオレンジの灯がともる。
煙が、夜風にすぐ流された。
「……名古屋じゃ、あんま吸えんかったんだけどね」
誰に言うでもなく、そんなことを呟いた。
そのとき、後ろから気配がした。
「……こんな時間に?」
声をかけたのはカズヤだった。
Tシャツ姿で、髪が少し濡れている。風呂上がりらしい。
久美子は驚いて振り返ったが、すぐに笑った。
「びっくりした。カズヤ君、夜は寝とると思っとった」
「……たまに起きるよ。なんか……話し声、聞こえたから」
「ひとりごとだがね。たまにやるのよ、こういうの」
カズヤは久美子の隣に立ち、手すりに肘をかけた。
目の前に広がる東京の夜景は、どこまでも静かだった。
「……俺、ふと思ったんだけどさ」
久美子がたばこをくゆらせながら、ちらりと横を見る。
「なに?」
カズヤは少し目を伏せて、ぼそっと言った。
「女に惚れでもしなきゃ男は部屋から出ん、って言ってたじゃん、アイゼンハワードさん」
「言っとったね」
「じゃあ、俺なんか総合的に見たら、真面目じゃないって訳か?」
久美子は、一瞬たばこを止めて彼を見た。
驚いたあと、小さく笑って言った。
「真面目じゃない人が、こんなに人の目を見る?」
カズヤの顔が少しだけ赤くなった。
風が吹いて、久美子の髪が頬にかかった。彼女はそれを軽く払って、火を落とす。
「……なにか、始まりそうな感じするよね、今」
「でも、始まりじゃないかもしれないし、終わりでもないかもしれない」
「うん。夜の真ん中って、そんな時間だがね」
久美子は最後の煙を吐き出して、ふっと肩を落とした。
しばらく沈黙があった。
「……あたしね、海外行くつもりなんよ。NPOのプログラム。来年からアフリカ。学校支援のやつ」
「えっ……そうなの?」
「うん。父にも言ってない。言ったら止められるでね。でも、わたし、自分の人生ちゃんと使いたいん」
カズヤはそれを聞いて、しばらく何も言えなかった。
そしてぽつりと呟く。
「すごいな……俺、自分の部屋の外すら見てなかったのに、久美子さんは、世界を見てるんだ」
「でもね」
久美子は振り返って、まっすぐ彼を見た。
「カズヤ君だって、ちゃんと“見る目”あるよ。たった一日で、動物の目も、人の目も、まっすぐ見とった」
カズヤは息を飲んだ。
何かが胸の奥に刺さった。
それは痛みではなく、温度のある“鼓動”だった。
その夜、二人はベランダの柵にもたれながら、しばらく夜風に身を任せていた。
言葉は少なく、沈黙もまた、穏やかだった。
それは告白のような、でも恋の始まりとは言えない夜。
ただ一つ確かなのは
二人の距離は、もう、昨日までのそれではなかった。
どこかで静かに、“再出発”のスイッチが入った音がした。




