第2話 トキオー観光プロジェクト
朝の光がカーテンの隙間から差し込んだ。
階下からは、コーヒーの香りと、ラジオの音が漂ってくる。
カズヤは、迷っていた。
昨夜、久美子に言われた「リビングにおるでね」という言葉が、頭の奥に残っていた。
時計は午前7時52分。
まだ間に合う。だが、行かなくても誰も責めない。
でも。
カズヤは、ゆっくりとベッドから身体を起こした。
8時ぴったり。
アイゼンハワードが新聞をめくっていると、階段を下りる足音が聞こえた。
「あら、来てくれたんやね!」
久美子の声がはじける。
振り返ると、そこには私服に着替えたカズヤが立っていた。髪は少し整えられ、シャツはちゃんとアイロンがかけられていた。
「……行ってみようかと思って」
「よっしゃあ! カズヤ、アルおじと一緒にトキオー案内してー!」
そう言って、久美子は腕を広げるように笑った。
アイゼンハワードは鼻を鳴らしながらも、帽子を被って立ち上がった。
「じゃあ、我々三人、"トキオー観光プロジェクト"の開始だな」
【浅草】
雷門の前には観光客が溢れ、外国語が飛び交っていた。
久美子はきゃっきゃとはしゃぎ、提灯の下でスマホを構える。
「カズヤ、並んで並んで! 自撮りするよ!」
不慣れな距離感にカズヤは戸惑いながらも、彼女の隣に立つ。
スマホの画面越しに見えた自分の表情が、ほんの少し、笑っていた。
「ほら、見てこれ。いい顔しとるよ、あんた」
久美子に言われ、彼は思わず目を逸らした。
でも、悪くない気がした。
そのあと乗った人力車では、車夫の兄ちゃんに恋人と勘違いされ、顔が真っ赤になった。
【上野動物園】
パンダの列は断念して、サル山の前に三人は立った。
鉄柵の向こうで、ボサボサの毛の猿が岩に座って、じっとこちらを見ていた。
カズヤも、無言で見つめ返す。
「……似とるか?」
久美子が茶化すように笑ったが、カズヤはぽつりとつぶやいた。
「……俺、まだ人間捨ててなかった」
その言葉に、アイゼンハワードは新聞をたたむように声を低くした。
「当たり前だ。お前の中には、立派な人間が眠っとる。今、目ぇ覚ましたとこだ」
カズヤは返事をせずに、猿をもう一度見つめた。そしてそっと、目を細めた。
【六本木】
夕方。陽が落ちる前のミッドタウン。
噴水の前で休憩しながら、久美子が飲みかけのアイスコーヒーを揺らしている。
アイゼンハワードはふと遠くを見るように目を細めて、つぶやいた。
「……ミス・セーラ。まだ赤ワインが好きか?」
久美子が振り返る。
「昔の彼女?」
「ま、そんなとこじゃ」
彼はそれ以上語らず、帽子のツバを少し下げた。
夕暮れの東京タワーが、ビルの隙間に浮かぶころ。
カフェのテラスで、三人はジュースと紅茶を前にして座っていた。
久美子がぽつりと語り出す。
「うちの父ね、最近やっと本音を言ったの。“家族って、あっていいものか迷った”って」
アイゼンハワードは黙って聞いていた。
カズヤも、目線を落としたまま頷いた。
「でも、私ね。思うんだわ。家族って、出来るもんじゃなくて、育てるもんだって」
しばらく風の音だけが、トキオーの空に吹き抜けた。
「……俺も、育ててみようかな、自分の“外の世界”」
カズヤが小さな声で言った。
久美子はその言葉に、黙って微笑んだ。
その笑みは、雷門で撮った写真より、ずっと近くに感じられた。




