第1話 ナゴヤーから来た女
トキオーの空は、鈍色にくすんでいた。
湿った風が街の隙間を這うように抜け、蝉の声だけが鋭く空を突いていた。
その日、大エイドーの外れにある古びた洋館の門を、一人の女がくぐった。
紺色のワンピースに日焼け止めの匂い。ナゴヤーから魔導新幹線でやってきたばかりの、後藤久美子だった。
「うわ……まだこんなに立派だったんだ」
門の前で立ち止まり、木々の緑に隠れた古洋館を見上げる。
アイゼンハワードは彼女の父・寺尾の親友であり、長年手紙のやり取りを続けていた旧き紳士の住まいだ。
インターホンを押すと、しばらくして重厚なドアが開いた。
「久美子ちゃんかね。……おお、なんというか、よう来たよう来た」
白髪をきちんと撫でつけ、蝶ネクタイを締めた老紳士が現れる。
背筋はまっすぐ、声は重くも温かい。その名もアイゼンハワード。
「お久しぶりです。突然すみません。父から“困ったときはアイゼンハワードに頼め”って言われまして」
「困ったときだけかい。まあ、あいつらしいな。入んなさい、暑かろう」
洋館の内部は時代に取り残されたままだった。
木の床、ステンドグラスの光、ミントの香る紅茶。
久美子はソファに腰を下ろすと、少し肩の力を抜いた。
「で、どんな困りごとかね?」
アイゼンハワードは煙草の代わりにチョコレートの箱を開けながら尋ねる。
「父が……離婚したんです。ま、本人は“自由になった”って言ってますけど」
「ほう。あの頑固者が、よう言ったもんじゃの」
「それで、少し東京を見て回りたくなって……せっかくだから、アイゼンハワードさんに案内していただけないかと」
すると彼は、口の端を持ち上げて笑った。
「ふむ……観光ねぇ。構わんが、ひとつ条件がある」
久美子が身を乗り出すと、アイゼンハワードは声を落とした。
「うちの孫を、部屋から引っ張り出してくれんかの」
「……カズヤさん?」
「ああ。良い会社に入ったが、仕事を辞めてからというもの、ずっと引きこもっとる。半年になる」
久美子は黙って紅茶を口に運んだ。
「なぜ私が?」
すると、アイゼンハワードはにやりと笑った。
「男ってのはな……女に惚れでもせん限り、部屋から出てこんのよ」
「はあ……」
あまりにも露骨な依頼に久美子は苦笑した。
そのころ、二階の部屋の奥。
カズヤは、布団の中でうつ伏せになっていた。スマホを握りしめ、通知のない画面を見つめている。
その夜。
家の中が静まり返った頃、久美子はそっと階段を上がった。
二階の突き当たり、灯りの漏れる一室。カズヤの部屋。
彼女はノックした。
「……カズヤくん、起きとる?」
しばらく沈黙があった。だが、数秒後、ドア越しにかすかな返事。
「……起きてます」
久美子はドアに背中を預け、柔らかく話しかけた。
「いきなり知らん女が来て、びっくりしたよね。ごめんねぇ。ほんとは静かに過ごしとったのに、邪魔しちゃって」
沈黙。返事はない。
「でもね、わたし、無理やり来たんじゃないの。おじいちゃんに頼まれて……て言うか、自分でも、なんか会ってみたくなって」
中から微かに、ベッドが軋む音が聞こえる。
「あしたね、浅草に行くんよ。せっかくだで、もしよかったら一緒に行かへん?」
また、沈黙。だが、ほんの少しだけドアが開いた。
隙間から、カズヤの顔がのぞいた。
ぼさぼさの髪、少し痩せた頬。目の下には薄く影があったが、その奥の瞳には、どこか温度があった。
「……なんで、そんなに優しくするんですか?」
久美子はにっこり笑った。
「優しくしとるつもり、ないけどね。わたしも昔、しんどいときがあって……誰かに助けてもらったんよ。そのお返しかな」
「……僕なんかと一緒にいて、嫌じゃないですか」
「損得で動くような性格しとったら、こんなとこ来とらんわ」
そう言って、久美子は立ち上がった。
「朝の8時、リビングにおるでね。気が向いたら、でええもんで。無理せんでええよ」
彼女が階段を降りていったあと、カズヤはしばらくその場に立ち尽くしていた。
ドアは半分、開いたままだった。
彼は廊下を見つめながら、小さくつぶやいた。
「……俺のことなんか、誰も見てなかったのに……」
扉の隙間から差し込む灯りが、今夜だけは、少しあたたかかった。




