第1話 ミヤザキの風、雨宿りの鈴音
夏の夕刻 南国・ミヤザキの油津にて、雨雲が空を覆い、静かに、しかし確実に地を濡らし始めていた。
かつて魔界の名門にして、四位貴族の家柄にあった男が一人、
その古き風情の残る路地を歩いていた。
名を、アイゼンハワード・ヴァル・デ・シュトラウスという。
今はただ、「アルおじ」と呼ばれる、流浪の魔族の老紳士である。
雨脚が強まる中、アルは一軒の理髪店の軒先へと身を寄せた。
その扉には、小さな銀の鈴が吊るされており
カラン♪
扉を開けたとき、その魔法の鈴が静かに、だが確かに鳴った。
「いらっしゃいませ……あら、まあ」
店の奥から現れたのは、一人の婦人。
短く整えられた髪に、清潔な白のシャツ。
年頃は四十代後半か。落ち着いた微笑みの奥に、どこか寂しげな影を宿している。
「ずいぶん濡れていらっしゃいますね。どうぞ、こちらへ。
よろしければ、髪などお整えいたしましょうか?」
「ふむ……そうじゃな。
旅の身ゆえ、整容などおろそかになっておった」
「旅のお方で?」
「うむ。任務の一環でな。
諸国を巡り、見聞を広め、また……失われたものを拾い集めておるのじゃ」
「まあ……それはまた、壮大なご職務ですね」
理髪椅子に腰かける。
「……随分と髪が伸びておられますね」
「齢を重ねると、時の流れに疎くなるものよ。
だが、そなたの手は実に心得がある。心地よいぞ」
「ふふ、お褒めいただき光栄です。
父の代から続く、この店だけが私の居場所でして……
客人がこうして静かに座ってくださるだけで、嬉しくなるのです」
アルは鏡越しに、その女性の名札を見た。
「理髪 なつこ」
「雨はまだ止みそうにないですね。
よろしければ、今宵は二階の部屋をお使いになってはいかがでしょう?」
「……なに? それは……遠慮のない申し出ではないか?」
「構いませんよ。空いておりますし、旅の方に静かな眠りを提供するのも、理髪師の務めです」
「……ふむ。
それでは、お言葉に甘えるとしよう。礼を言う、なつこ殿」
彼女はふと、天井を見上げる。
「……そういえば、ひとつだけ、お伝えしておきたいことがございます」
「なんじゃ?」
なつこは、にこりと笑いながら、天井の鈴を指さした。
「あの魔法の鈴は、“最初に鳴らした方と結ばれる”という、古くからの言い伝えがあるのです」
「……なに?」
「まあ、ただの迷信ですけれど。
でも、お客様が鳴らされた魔法の音……確かに聞こえましたよ?」
「……なんという不条理。
わしはただ、雨を避けるために、扉を開けただけなのじゃが……」
「そういう方にこそ、鈴は鳴るものなのかもしれませんね」
「……むぅ……まこと、世の理とはままならぬものよ……」
夜になった。
しかし雨はなお止まず、
理髪店の古時計が静かに時を刻んでいる。
アルは借りた寝巻に着替え、窓辺に座って、遠くの雨音を聞いていた。
「……悪くない。
旅の途中に、こうして温もりのある屋根の下におるのも――」
天井の魔法の鈴が、微かに風に揺れて鳴った。
カラン♪
アルは、そっと目を閉じて、呟いた。
「この旅が、また妙な道に繋がっておらねばよいがな……」
470歳の魔族のおっさん、
またしても“ご縁”に巻き込まれていくのであった。




