第1話 くたびれたスーツと、夏の招待状
蝉が鳴いている。
梅雨も明けた七月、トキオー地区のオフィス街の昼下がり。
熱気がアスファルトを揺らし、スーツの背中に容赦なく汗が張り付く。
「カズヤくん、資料の提出先、間違ってるじゃないか!」
「すみません……すぐ修正して──」
「“すぐ”じゃないよ。もうすでに遅いんだよ、君の“すぐ”は!」
会議室に響き渡る怒声。
営業部に配属されたばかりの新入社員・加瀬カズヤ(22)は、
頭を下げながら、自分のネクタイの結び目を無意識に握りしめていた。
「(……これが、大人ってやつかよ)」
小学生のときに「大人になったら自由になれる」と思っていた。
中学では「大学生になったら、恋愛もできる」と思っていた。
大学では「社会人になったら、お金も自由も手に入る」と思っていた。
どれもウソだった。
帰り道、スマホが震える。
見知らぬ番号からの着信かと思ったら、懐かしい名前だった。
【着信中】
【長瀬達也】
「ん、先輩……?」
電話を取ると、豪快な笑い声が耳に飛び込んできた。
「おーいカズヤ! 社畜生活どうよ! 生きてるか!?」
「……ギリ、まだ……」
「だろうな。よし、じゃあ夏祭り来い。由比ヶ浜。今週末な!」
「えっ、急すぎる……」
「いいから来い! 祭りには浴衣の女の子もいるし、うちの妹にも会わせる。人生変わるぞ」
「えっ、なにそれ……やだなぁ……」
「やだなって言っても、もう予定に入れといたからな。んじゃ!」
プツッ
通話が終わった。
画面に映る「通話終了」の文字と、頭の中の「疲れ」が、同じくらい空しく消えた。
「……ま、いっか」
その夜。
風呂あがりのカズヤがぐでーっとリビングで倒れていると、
唐突に、黒マントの魔族がベランダから入ってきた。
「おーい、カズヤ~ パンあるか?」
「……アルおじさん。なんで窓から入ってくるの……鍵開いてるでしょ……」
「鍵を開けるという行為がもう億劫なんだよこの歳になると。470歳なめんなよ」
「はいはい。で、今日はなんの用?」
「お前、休み取ったんだって? よかったな。人生棒に振る前に一回くらい祭りでも行っとけ」
「なんで知ってるの」
「魔族の耳は地獄の電波を拾うのさ」
「その設定、初耳……」
「つーわけで、俺も行くぞ。由比ヶ浜とやらに」
「えっ!? 来るの?」
「当然だろうが。孫が女の子と夏祭りだ? ジジイが見守らずにどうする!」
「いや、別に“女の子と”って決まったわけじゃ──」
「決めろ。恋をしろ。燃えろカズヤ。なにしろお前は──」
「わかったわかった!! じゃあ明日準備するから!!」
次の日の朝、
カズヤはグリーンのボストンバッグを肩にかけ、
アルおじさんはデカいトランク(中身はパンとフィルムカメラ)を抱えて、
江ノ島行きの電車に乗った。
「……なんか、こういうの、修学旅行みたいだな」
「人生はな、修学旅行の延長だよ。恋をして、失敗して、パンを焦がして、笑って死ぬんだ」
「……パン焦がすのはアルおじさんだけだよ」
「失礼な!」
車窓から差し込む日差しが、2人の顔を照らしていた。
孫カズヤとアルおじさんの旅が始まる。




