第4話 パンと海と、SAGAと私 〜あの丘の上の音楽教室〜
魔界南方、SAGA島。
そこは、魔族とは思えぬほど人懐っこくて、海と温泉とパンを愛する人々が暮らす、のどかな島だった。
「深海酵母パンくださいなぁ〜! できれば耳カリカリのやつ!」
「わかったよ〜! 焼きたてを持ってきな!」
港の朝市で、アイゼンハワードは地元民に完全に溶け込み、
早速”貴族の魔族なのに名物おじさん”ポジションを確立していた。
一方、麦わら帽子の少女。ハルコは、港から少し離れた“ある丘の上”を見つめていた。
「……あの場所、間違いない。私の家よ」
その家は、半分廃墟だった。
丘の上に建つ、朽ちた木造の屋敷。
かつては裕福な家だった面影を、風化した看板が語っている。
《魔海音楽教室 海とメロディと心のソナタ》
「……こんな名前つけたの、パパよ……」
玄関を開けると、潮風にさらされ続けたピアノと、ホコリをかぶった譜面台。
床はところどころ抜けており、壁にはMADOのポスターが飾られていた。
まだ、人気が出る前のMADO。笑っていない少女の顔。
「ここで……私は歌を学んで……ここから逃げたのね」
ハルコは、深く息を吸い込んで、
古いピアノの椅子に腰を下ろす。
キーをひとつ、静かに鳴らす。
そして、目を閉じる。
メロディーと共に
過去が流れ出す
■■過去の記憶
10歳のハルコは、いつも海を見ていた。
でもそれは、憧れではなかった。逃げ場だった。
音楽家だった父は、「才能がある」と言ってくれた。
母は優しかったが、病弱で、早くに亡くなった。
代わりに父が望んだのは、完璧な歌姫になること。
パン杭競争の日も、
毒クラゲ祭りの日も、
子供たちが海で遊ぶ放課後も、
彼女だけは、音楽室のなかにいた。
■■■
「……ねぇ、私。あの時、本当に歌が好きだったのかな」
そこへ現れる、魔獣おじさん。
「よう、焼きたてパン買ってきたぜ。
耳カリッカリ、尻尾もちもち、SAGA名物“深海酵母ハードロール”な」
アイゼンハワードは、ポケットからパンを差し出した。
ひと口かじって、ハルコは泣いた。
「ねえ……アルさん……私、なんで歌ってたんだろう。 誰のために、何のために……。気づいたらMADOになってたの。 ファンが喜ぶから、プロダクションが褒めるから……」
アルは煙草に火をつける。
「なんだ記憶戻ったのか?そんなの、みんなそうだ。
俺だってな……昔は“魔界の公爵”だの“血の貴族”だの言われて、
持ち上げられたもんさ。でも今じゃ……」
「今じゃ?」
「……孫の運動会、どっちのカメラが我が子か見失うレベルのおじいだよ」
「ぷっ……ふふふっ……」
ハルコが初めて、心から笑った。
音楽室の奥、黒板に残されたメッセージ
二人が奥の部屋を覗くと、
そこには、白いチョークでこんな文字が書かれていた。
『ハルコへ パパより』
『君の歌は、海より深く、空より自由だ。好きなところへ飛んで行け』
彼女はそれを見て、泣いた。
初めて聞いた、“許された歌”だった。
夕暮れ、海辺でギターを抱えたハルコがつぶやく。
「……アイゼンさん。わたし、もう一度歌ってみようかな。誰かのためじゃなくて、私自身のために」
「やってみろよ。……で、その歌が誰かを救うなら、上等じゃねぇか」
「うん……。最初の一曲目は、あんたのために作る」
「へぇ。タイトルは?」
ハルコは照れた顔で答えた。
「『私の愛した魔獣おじさん』」
「……帰る」
「ちょっと待って!? 帰らないで!?」
夕暮れを背に二人は海岸を歩いた。




