第2話 引き金は、ため息と共に
廃都市クレンゼン。空はどんよりと曇り、金属の香りを含んだ風がビルの隙間を吹き抜ける。
ダリ・メンドウは、屋上の古びたパイプの上に寝転びながらチョコをかじっていた。
「……ったく。よりにもよってクロエとか、マジでダリィ……」
ターゲットの名は、クロエ・フォルシエール。
元同僚で、副官で、完璧主義の鉄メイド。
今は国家転覆を企てる組織《白手袋》の副司令。
彼女の命を狙う任務を、ダリが“押し付けられた”のだ。
インカム《任務確認。クロエは北西の教会塔にて狙撃配置中。》
《撃つか、撃たれるか。タイミングは任せる》
「……もうね、恨みの感情で狙われるとかマジめんどくせぇ……恋愛の逆恨みとかほんと時代遅れなんだってば……」
300メートル先。廃教会の塔。
そこに立つひとりの女。
ブロンドをきっちり結い上げ、紅のコートに黒のスコープライフル。
鉄のような冷たさと、微かににじむ情念の女クロエだった。
スコープ越しにダリと視線が交錯する。
「ダリ……あんたさえいなければ、ジュリオは……」
ダリがため息をつく。
「……だから言ったじゃん……
あたし、ジュリオに興味ないって。
ていうかそもそも、あいつ甘党じゃない時点で対象外なんだよね……」
■クロエの過去の回想
ふいに、クロエの視界に古い記憶がよみがえった。
あの、静かで上品な午後。お屋敷の紅茶室。
クロエは淡く香るアールグレイを淹れ、ジュリオの帰りを待っていた。
「クロエ、いつもありがとう。君の紅茶は完璧だ」
「ふふ、ジュリオ様の笑顔を見るためですもの」
そこへ、ふらっと現れたダリ・メンドウ。
チョコを頬張りながら、ぐてっとソファに倒れ込む。
「あー疲れた。なんか甘いのない?」
「勝手に人のカップケーキ食べないでっ!」
「え、ジュリオの?……うまっ。おい、これ作ったのお前?センスあるじゃん」
それが、ジュリオの“ダリへの初恋”の瞬間だった。
クロエは、その日から気づいていた。
彼の視線が、いつのまにか自分を通り過ぎて、ダリの方ばかりを見ていることに。
「……ふざけないで……。あの人が振り向いたのは、ただの気まぐれよ……!でも、でも……!」
クロエの唇が震える。
その指先は、再び引き金にかかろうとしていた。
スコープ越し、ダリが立ち上がる。
雨が止む。雲の隙間から、陽が一筋差し込む。
ダリは、ようやく腰を上げ、ライフルを構えた。
《残り5秒……》
「……なーんで、こんなことで命狙われなきゃなんないわけ……
ジュリオなんて今どこで何してるかも知らないのにさ……」
《3秒……》
クロエの銃口が揺れる。感情がぶれ、照準が定まらない。
《2秒……》
──パン。
銃声は一発。
風に紛れて、ほとんど誰にも聞こえなかった。
クロエの肩に、ダリの弾がかすった。
命は取っていない。ただ“恋心”だけを撃ち抜いた。
ダリはゆっくり塔に向かい、クロエの前に立つ。
「……クロエ。ジュリオが振り向かなかったのは、あたしのせいじゃないよ。あいつが、あんたの“完璧さ”に疲れただけなんじゃね?」
クロエは何も言わない。
ただ、ぽたりと雫が、頬から流れた。
ダリは静かに背を向けた。
「恋の引き金ってさ、軽く見えて、めちゃくちゃ重いんだよね…… でも、あんたが、もう撃たないで済むようにさ。今日は、あたしが撃ったわけ」
その夜。
ダリは屋上に戻り、空を見上げながら缶チョコをかじる。
「……ふぅ……甘っ……あー……これで、明日も生きてける気がするわ……」
帰り道。自販機で缶コーヒーのカフェラテを買い、ベンチに座る。
「……女の嫉妬って、当たると地味に痛いんだよな……ま、殺すよりはマシだけど」
彼女は缶をぷしゅっと開け、空を見上げる。
「しっかし…… モテるって、マジでめんどくせぇ……」
風が吹く。
それは、アールグレイ紅茶の香りに似ていた。