第5話 中華人民共和国からの脱出
中華人民共和国からの脱出
その言葉を胸に、カズヤは静かに頷いた。
東京へ戻るための道は、まだ遠い。
領事館の裏手にある石畳の路地。
夜明けの薄光の中、田中瑠璃は携帯を握りしめ、誰かと短く囁いていた。
「……ええ、二人分です。今夜、南の滑走路。
王社長には“緊急の文化財輸送”と伝えてあります。」
通信を切ると、彼女は深く息を吐き、二人へ向き直った。
「行きましょう。時間がありません。
この街が目を覚ます前に、出なければ捕まります。」
アル叔父が静かに頷き、カズヤの肩に手を置く。
「王というのは?」
「民間企業“シンユン貿易”の社長。政府と繋がりが強い中国人実業家です。
裏社会にも顔が利く……ただし、信用できるかは分かりません。」
「信用など、いつの世にも幻想だよ。」
アル叔父は薄く笑い、砂を踏むような足取りで歩き出した。
夜。
南区の軍用滑走路に隣接した、王のプライベートハンガー。
黒塗りのジェット機が、エンジンを低く唸らせていた。
外には武装警備員。
その間を縫うように、三人は影のように進む。
「……ここを抜ければ、あとは空だ。」
カズヤが囁く。
だがその瞬間、遠くでサイレンが鳴り響いた。
「検問が動いた! 誰かが情報を流した!」
瑠璃が声を上げる。
滑走路の先、パトライトの光が近づいてくる。
「行け、カズヤ!」
アル叔父が背中を押す。
その掌は、長い年月を生き抜いた者の静かな力を宿していた。
三人は駆けた。
警備員が無線に叫び、照明が一斉に灯る。
白い光が闇を裂き、砂煙とジェットの轟音が交錯する。
夜の砂嵐が吹き荒れる滑走路。
黒煙を上げる軍用車が何台も横転し、炎が空を赤く染めていた。
カズヤと田中瑠璃は、王のプライベートジェットのタラップを駆け上がっていた。
遠くで無線の声が響く。
「日本のスパイを逃がすな! 撃てぇっ!」
銃声が連続して鳴り響く。
弾丸がカズヤの頬をかすめ、熱い血が流れた。
「アル叔父さん!!」
振り向くと、爆炎の中から、ひとりの老人が歩み出てきた。
その手に握られているのは、黒曜石のような刃――
魔剣。
「行け、カズヤ。お前の帰るべき場所は、まだ“未来”にある。」
低く、静かにそう告げる声。
次の瞬間、アイゼンハワードの足元から地を裂くような風圧が走った。
ギルティーナの刃が空を切るたび、銃を構えた兵たちの身体が宙を舞い、
次の瞬間、無音のまま崩れ落ちていく。
「な、なんだあの老人はっ……!」
敵兵が叫ぶより早く、剣閃が閃光のように走る。
風が唸り、砂が爆ぜ、空気そのものが震えた。
アイゼンハワードの白髪が風に散り、
その瞳には、百戦錬磨の戦鬼の輝きが宿っていた。
「ギルティーナよ――我が罪を喰らえ。」
剣が紅く染まり、轟音とともに大地が裂ける。
十数名の兵士が一瞬で吹き飛び、炎の渦に飲まれて消えた。
カズヤは振り返る。
アル叔父の背中が、炎の中で巨大に見えた。
その背に向けて叫ぶ。
「アル叔父! 一緒に帰ろう!」
王がタラップの上で待っていた。
濃紺のスーツにサングラス――まるで舞台に立つ俳優のような笑みを浮かべて。
「時間ギリギリだな。君たち、日本人は本当に劇的だ。」
「頼む、飛ばしてくれ!」
カズヤが叫ぶ。
王は軽く顎を引き、手を叩いた。
「離陸準備だ!」
カズヤが振り返ると、後方に黒い影が幾つも迫っていた。
武装した傭兵たちが、機関銃を構え突進してくる。
その瞬間、アイゼンハワードが立ち止まった。
「行け、カズヤ。」
その声は低く、だが確固たる力に満ちていた。
白髪を風に靡かせ、彼は腰の剣をゆっくりと引き抜く。
漆黒の刃――魔剣ギルティーナが月光を反射する。
「ギルティーナ我が名を刻め。」
地が鳴り、空気が震えた。
剣が振り下ろされるたび、砂煙が爆風となり、敵が吹き飛ぶ。
銃弾が彼に届く前に、見えない壁のような力がそれを弾き返していく。
「アル叔父! もう行きましょう!」
「行くぞ、カズヤ。だが奴らの“目”を断たねば我々は追われ続ける。」
再び剣が閃く。
魔剣ギルティーナの刃が、敵の監視ドローンを次々と切り裂いた。
爆発の光が夜空を照らし、滑走路全体が赤く染まる。
「今だ、走れっ!!」
二人は炎の中を駆け抜けた。
風圧、熱、硝煙すべてが渦を巻く中、
カズヤは手を伸ばし、瑠璃の腕を掴む。
「乗り込めっ!!」
アイゼンハワードが最後に振り返り、敵の車両に向けて剣を投げ放つ。
それが突き刺さった瞬間、轟音が響き、
爆発の火柱が立ち上がった。
「発進だ!!」
機体のハッチが閉じ、プライベートジェットは滑走路を離れる。
炎の帯を背に、夜の空へと舞い上がった。
下には、燃え上がる砂漠の基地。
そして、魔剣を振り抜いたまま立つアイゼンハワードの姿――
いや、もうその姿は、煙の中へと溶けていった。
「アル叔父さん……!」
カズヤが叫ぶ。
だが次の瞬間、機体の後部ハッチが開き、
風に吹かれながら、アイゼンハワード自身が飛び込んできた。
「……死ぬには、まだ早い。」
息を荒げながらも笑みを浮かべるその姿に、
カズヤはようやく安堵の息を漏らす。
プライベートジェットは高度を上げ、
夜空の雲の上へと滑るように消えていった。
日本へ。
まだ終わってはいない。
三原聡の“偽りの外交ルート”を暴く旅は、ここから始まる。




