第5話 影と光の迷路
夜明け前の霧は、まるで生き物のように蠢いていた。
空は白んでいるのに、町全体が夜の底に沈んだようだ。
廃墟の町の屋根から屋根へと、黒い靄が這い、どこかで“笑い声”がした。
「……カズヤ、下がれ」
アイゼンハワードが低く囁く。
その声はいつもより荒く、呼吸に焦りが混じっていた。
廃工場の奥、赤く錆びた鉄扉がゆっくりと開く。
中は暗闇だった。
ただ、奥のほうで“何か”が動いている気配だけがあった。
「誰かいるのか?」
カズヤの声が震える。
返事はない。代わりに、壁に吊された鏡が揺れた。
その鏡の中“少女”が立っていた。
白いワンピース、血のような赤い瞳。
しかし、その顔は曖昧で、焦点を合わせるたびに形が崩れる。
笑っているようで、泣いているようでもあった。
「……また会ったね」
囁く声が鏡の内側から響く。
カズヤは一歩、二歩と後ずさる。
鏡の中の少女がこちらへ向かって“歩いてくる”。
しかし鏡の中ではなく、“現実の床の上”に足跡が浮かんだ。
「アルおじ……これ、どういう――」
「気をつけろ。まだ“見えていない”」
アイゼンハワードは魔剣ギロティーナを抜き、刃を構えた。
刃が白く輝くと、鏡の中の霧が一瞬だけ裂けた。
その向こうに、行方不明の“大学生たち”がいた。
腐食したヘルメット、破れたリュック。
だが、顔がなかった。
まるで皮膚の下から何かが溶け出したように、頭部が滑らかな肉の塊に変わっていた。
「や……め……て……」
一人の女学生の口のない顔から、空気を振るわせるような声が漏れる。
次の瞬間、彼女の全身が捩じれ、影と共に壁へと吸い込まれていった。
壁の中に、何かが“動いている”。
人の形をした影が、何体も重なり合って、蠢いていた。
それは、大学生たちやユーチューバーたちの“残響”だった。
「見ろ、カズヤ……。
これが、この町が“喰らった人間たち”の姿だ」
アイゼンハワードの声には怒りがこもっていた。
だが次の瞬間、少女の声が空間全体に響く。
「彼らは選ばれた。
この町に足を踏み入れた“侵入者”として、形を与えられたの」
その言葉と同時に、霧が壁から溢れ出し、廃墟全体を包み込んだ。
視界が真っ白に染まり、足元の地面が消える。
影と光の迷路。
気づくと、カズヤは無数の影の間に立っていた。
どの鏡にも、自分と少女とアイゼンの姿が映っている。
だが、それぞれの影の中では“結末”が違っていた。
「カズヤ、聞こえるか!」
遠くからアイゼンの声。
だが、どこからか分からない。
カズヤは息を切らしながら走る。
光の向こうでは、影の少女が静かに微笑んでいた。
「あなたも……この町に取り込まれるの」
指を伸ばした瞬間、鏡が一斉に割れた。
破片の一つひとつが、血のような光を放つ。
その刹那
アイゼンハワードが飛び込んできた。
彼の剣が光の残滓を裂き、少女の影を切り払う。
周囲の鏡が砕け、霧が吹き飛んだ。
「……お前は誰だ」
アイゼンの問いに、少女は静かに笑った。
「私は……この町に“残された想い”。
でも、あなたが救おうとした“あの子”ではない」
少女の輪郭が揺らぎ、霧の中へと溶けていった。
静寂。
瓦礫の音だけが、遠くでこだましている。
「カズヤ……あの少女、まだ何かを“待っている”。」
アイゼンハワードが呟く。
カズヤは、ただ頷くしかなかった。
霧の奥、崩れた研究所の方角から、微かな声が聞こえた。
「たすけて……アイゼン……」
風が止まり、町全体が息を潜めた。
そして、霧の向こうで“誰かの足音”が近づいてくる。