第6話 名前を奪う廊下
13階
その最奥にある、どこへも繋がらない“廊下”。
壁はうっすらと湿っており、古い鏡が左右に無数に並んでいた。
照明は途切れ途切れに明滅し、奥行きの感覚が掴めない。
足音が、二重にも三重にも反響して聞こえる。
まるで“誰かが一緒に歩いている”かのように。
若宮透が、懐中電灯を構えて言った。
「この廊下……図面に存在しない。なのに、内部構造は一貫している。まるで――建物が、増殖してる」
氷室夏生の署名が記された古い設計図。
そこには確かに、“13F”の記載はなかった。
だが今、彼らは確かにその中にいる。
御堂つかさが、鏡に手を伸ばした瞬間――
「……あれ?」
指先が、すり抜けた。
ガラスではなく、粘膜のような感触。
触れた瞬間、体温が奪われ、視界がわずかに歪む。
「つかさ!」
桐谷玲が駆け寄るが、次の瞬間――
鏡の中に映る“御堂”が、笑った。
それは本物のつかさではない。
瞳孔が逆に揺れ、口元から黒い影が垂れていた。
「……あんた、名前……忘れたら、どうなると思う?」
鏡の中の声が、耳の奥に直接響いた。
つかさが後ずさるたび、廊下の鏡のひとつひとつが微かに囁く。
「名前を……返して……」
「あなたの……名前を……」
真壁慶介の残した録音機から、再び囁き声が漏れ出す。
ノイズの隙間に、微かに言葉が混じっていた。
『13階では、名を呼ぶな。名を奪われる』
カズヤが振り向いたとき、背後にいたはずの羽生しずえの姿が消えていた。
代わりに、鏡の中にだけ、彼女が立っていた。
亡き夫と“再会”したあの夜と同じ服装のまま。
鏡の中で、穏やかに微笑んでいる。
「……あなた……私、見えるのね……」
そう呟いた瞬間、彼女の声が空気から完全に消えた。
まるで音ごと“存在”が消し取られたかのように。
カズヤが叫ぶ。
「羽生さん!? どこですか!」
返事はなかった。
ただ、鏡の中の影たちがゆっくりと顔を上げる。
彼らは、無数の口を開き、ひとつの声で囁いた。
「ここにいる……ここにいる……」
若宮が息を呑む。
「この廊下……“名前”を媒介にして存在を結びつけるんだ。呼んだら引きずり込まれる」
その理屈を理解した瞬間、全員が息を潜めた。
だが、鏡の中の羽生が、震える唇で言う。
「ねぇ……呼んで……私の名前……呼んでよ……」
その声は、確かに羽生しずえの声だった。
だが、その瞳の奥で蠢く黒い光は、彼女のものではなかった。
鏡の列がざわめき、ガラスの向こうで無数の手が現れた。
指先が、ガラスを叩き、引き裂こうとする。
カズヤが絶叫する。
「全員、後退しろ!!」
アイゼンハワードが先頭に立ち、懐中電灯を逆手に構える。
光を浴びた影たちは一瞬だけ後退するが、すぐに形を変えて再び現れた。
そのとき、鏡の最奥――
白石冴子の声が、囁きの中から滲み出るように聞こえた。
「……名を呼ぶ者は、名を失う……
名前を奪われた者は、永遠に13階に残る……」
照明が完全に消えた。
次に光が戻ったとき、そこに立っていた人数はひとり、足りなかった。
ホテル関係者
白石 冴子(支配人):黒い喪服のような制服を着用、無表情。ホテル創業者の娘。十三階の存在を否定するが、鍵を握る深夜の支配者。
黒沼 龍三(夜警):寡黙で無愛想。十三階の存在を知る唯一の従業員。「名前を奪われる」と警告。
御堂 つかさ(清掃員):普段は明るく無邪気だが、時々別人格が現れる。掃除フロアでは影が増える噂。
葛原 美鈴(精神科医):ホテル顧問。宿泊客の怪奇現象を心理的症状と説明するが、自身も幻聴に悩む。
宿泊客/関係者
真壁 慶介(怪談ライター):取材中に十三階の声を録音し失踪。残されたレコーダーには謎の囁き声。
桐谷 玲(若手アイドル):怪談イベントのゲスト。過去にホテルで妹を亡くしておりトラウマを抱える。
羽生 しずえ(老婦人宿泊客):亡き夫の霊に会うため滞在。夜中に幽霊と会話する姿を目撃される。
神代 一馬(廃墟探索YouTuber):十三階に無断侵入して失踪。配信で「誰かが後ろにいる」とコメント。
調査者/関係者
若宮 透(都市伝説研究家):旧友のカズヤとともにホテル調査。建築図面に「削除された部屋番号1313」を発見。
氷室 夏生(故人建築士):ホテル創業時の建築士。図面に日付違いで署名が複数回あり、設計をやり直した理由が謎の核心。