第2話 監視の巣
管理室の奥に踏み入れた瞬間、カズヤは思わず息を呑んだ。
壁一面を覆う無数の黒いレンズ。
そこには、見慣れたエントランスや廊下だけでなく。各階の非常階段、ゴミ置き場、さらには住戸の玄関前までが映し出されていた。
「……これは、管理人の範疇を超えているな」
アイゼンハワードが低く呟く。
モニターには赤いランプが点滅し、すでにいくつかの映像は“削除済み”と表示されていた。
「誰かがデータを持ち去った形跡がある。今永が死ぬ直前……いや、それ以前から」
カズヤは唇を引き結び、視線を巡らせた。
壁の裏には、業者の知らない配線ルート。
設置された防犯カメラは、管理会社の台帳にも存在しない“影の監視網”だった。
誰が、誰を監視していたのか。
最初に聴取に応じたのは、シングルマザーの岡田涼子(42)。
やつれた目の下に深いクマを刻みながら、彼女はため息交じりに言った。
「今永さん? あの人、子どもの声が少しでも聞こえると、すぐに“規約違反”って言うんです。
だから、もう夜は息子に笑うことすらやめさせた……。でも、私、殺してなんてない」
彼女の手は震えていた。
しかし、その瞳の奥に、微かに“恐怖以外の何か”が宿っていた。
次に現れたのは、スーツの皺一つない男。東条健二(37)。
不動産管理会社の担当者で、まるで感情の温度を失ったような声で言った。
「管理人の死は不運な事故です。私どもには関係ありません」
だが、カズヤの目は彼の袖口の跡を見逃さなかった。
そこには、監視カメラの設置工具の痕があった。
アイゼンが問いを重ねる。
「あなたが“監視していた”のは、住民か……それとも今永本人か?」
東条は無言のまま、目を伏せた。
マンションのオーナー、大河原修(65)は重厚な革椅子に沈みながら鼻で笑った。
「管理人の死んだぐらいで、騒ぎすぎだ。
あんな男、どうせ誰かに恨まれて当然だったんだよ」
彼の机には、帳簿と共に封印された“現金の束”。
そして、住民たちの苦情が封も切られず山積みになっていた。
夜な夜な廊下で撮影していたのは、YouTuberの南田薫(28)。
事件直後、彼は動画を削除していたが、カズヤの端末に残ったキャッシュデータには
誰も知らない角度のカメラが映り込んでいた。
「俺が監視されてたんだよ、逆に! 気づいた時には、レンズが全部、こっちを見てた!」
彼の声は恐怖と興奮が入り混じっていた。
一方、清掃員の田所章(50)は焦燥の色を隠せなかった。
今永とは旧知の仲だったが、事件前夜の口論を目撃されている。
「確かにケンカした。だが、あいつは“もう一人の俺を見た”なんて、訳の分からんことを言ってたんだ」
田所の証言は、何か“もう一層の真実”を匂わせていた。
住人の三好梨花(31)は、ひっそりと違法シェアハウスを運営していた。
事件の夜、玄関カメラに彼女の姿はなかったが、内部カメラには見知らぬ人物の影が残されていた。
「……誰? あんな人、見たことない……」
彼女の声は震えていた。
理事長の日下部礼司(45)は書類を抱えながら、強い口調で言い放つ。
「私はこのマンションを“秩序ある共同体”にしようとしただけだ。
管理人の死は痛ましいが、規則を乱す者は……罰を受ける」
その言葉に、カズヤは冷たい視線を送った。
「あなたの秩序は、誰のためのものだ?」
死体の第一発見者である白鳥舞子(26)は、記憶に抜け落ちがあると証言した。
「朝、ゴミを出しに行ったら……倒れてたんです。
でも、その前……誰かに呼ばれたような気がして……」
アイゼンが静かに頷く。
「呼ばれた? “声”の主は、もしかすると……」
そして最後に浮上したのが、外部配送員の川村俊介(33)。
事件当夜、荷物を届けに来たはずなのに、監視映像には彼の姿が一切なかった。
「俺? 本当に届けただけだ。カメラに映ってない? ……あれ? なんでだ?」
彼の顔は蒼白だった。
カズヤは夜の廊下に立ち、冷たい空気を吸い込んだ。
天井の隅には、小さなレンズいや、“誰かの眼”が光っている。
「アイゼン、これは単なる殺人じゃない。
このマンション全体が、監視する者とされる者の巣になっている」
アイゼンは護符を光らせ、目を細めた。
「そして、巣の主は、寄生虫まだどこかで息をしている。」
風が唸り、闇がざわめいた。
死んだはずの管理人の規則が、なおもこの建物を締めつけているかのように。
今永辰夫(いまなが たつお・58)
リバーサイド大河原の管理人。極端な規制好き。被害者。
岡田涼子(おかだ りょうこ・42)
シングルマザー。管理人とたびたび対立していた。息子を守るため過剰防衛気味。
東条健二(とうじょう けんじ・37)
不動産管理会社の担当。冷徹で無表情。実は今永を“ある理由で”監視していた。
大河原修(おおかわら おさむ・65)
マンションのオーナー。住民たちの苦情を無視していた。裏で脱税疑惑あり。
南田薫(みなみだ かおる・28)
YouTuberの住民。規制に反発して“監視カメラを逆に撮る動画”を投稿していた。
田所章(たどころ あきら・50)
清掃員。今永の古い知人。事件前日、口論する姿を目撃されている。
三好梨花(みよし りか・31)
シェアハウスとして違法に部屋を貸していた住人。秘密の副業がある。
日下部礼司(くさかべ れいじ・45)
マンション理事長。几帳面で正義感が強いが、極端なルール主義者。
白鳥舞子(しらとり まいこ・26)
夜勤の看護師。ゴミ出しの朝、最初に死体を発見した人物。記憶に“抜け落ち”がある。
川村俊介(かわむら しゅんすけ・33)
外部の配送員。事件当夜、マンションに入っていたが記録が残っていない謎の人物。