序章 マンションを規制する男
目黒川のほとりにそびえる分譲のマンション。
リバーサイド大河原。
春には桜、夏には蛍が舞う。だがその美しい景色とは裏腹に、そこにはひとりの異様な男がいた。
管理人、今永辰夫・五十八歳。
かつて区役所職員として働いていたが、几帳面すぎる性格とトラブル続きで早期退職。
その後、管理業へ転身したものの、彼の性分は相変わらず、いや、むしろ悪化していた。
廊下の掲示板には、びっしりと張り紙が貼られている。
「洗濯物は夜禁止」
「笑い声は騒音です」
「二人での入居禁止」
「恋人・家族の出入りは届け出が必要」
さらに、
「靴音注意」「水道使用は23時まで」「走るの禁止」「郵便受けの開閉音禁止」
まるで、人間が息をすることすら“規制対象”であるかのようだった。
住民の間では、いつしか彼をこう呼ぶようになっていた。
規制虫。
夜な夜な廊下を這うように見回り、監視カメラの赤いランプを確認して回るその姿は、まるで生きた警告灯のようだった。
誰かが玄関を開ける音がすれば、十秒もたたずに内線電話が鳴る。
「今、廊下を歩きましたね?」「ゴミ袋、分別が違います」
その声を聞くだけで、住民たちは背筋を凍らせた。
だが、その“規制虫”が、ある朝ゴミ置き場で死体となって見つかった。
最初に発見したのは、早朝勤務の看護師・白鳥舞子。
彼女は出勤前にゴミを捨てようと扉を開け、息をのんだ。
金属の匂い。湿った紙。
ゴミ袋の山の奥に、今永の体が座り込むように倒れていた。
目は見開かれ、口には**ぐしゃぐしゃになった「管理規約」がねじ込まれている。
両手は胸の上で組まれ、まるで自分の掟に縛られるような姿だった。
警察が到着したとき、部屋の管理室には一枚の紙が残されていた。
震える字で、こう書かれていた。
「規制を破る者には、罰を」
その文字の下に、赤黒い指紋がひとつ。
今永のものでは、なかった。
目黒川を渡る風が冷たく吹き抜ける。
リバーサイド大河原に、再び“静寂のルール”が戻るかのように。
だが、それは始まりにすぎなかった。