60.
家に着いて、扉を閉めた途端に力が抜けた。
血の気がやっと戻ってくる。
振り返ると、アルフレッドの顔は真っ青だ。
緊張で強張った冷たい手を、ギュッと握りしめる。
「…ありがとう、アル。あやうく食べられる所だった」
「あやうくじゃないよ!姉さんは…!危機感が足りない!!」
カッとなって叫んだ後に、存在を確かめるようにレイの頬に手を添えた。指先まで震えた手が、ゆっくりと顔を包む。
「あぁ間に合って良かった…姉さんに何かあったら、俺はもう…どうか、俺の側を離れないでくれ」
「ごめん…アル…心配かけた…ごめんね」
弱々しい泣き声にも近い声音。アルフレッドは再び力強くレイを抱きしめた。
安心させるように、背中を摩る。
異種族の価値観を垣間見た。
竜族が盲目にリオウを信仰するように、妖精族は妖精族の信仰がある。
息をするように自然に、レイの命に手をかけても、妖精族に罪の意識は無かった。
物語にも、こんな話があったなぁ、とレイは思った。
綺麗な歌声で人を誘い、惑わせた人間を海に沈める。捕食された人間は、人魚にとってただの餌であり、命は海の底に消えるのだ。
「まったく殺意がない。あれほど危険な種族は初めてだ」
「そうだね。世界は広くて、私は知らない事ばかりだ」
「何かを知るたびに、姉さんが危ない目にあうなんてたまったもんじゃない」
アルフレッドはレイを抱き上げる。姫抱きにされ宝物のように扱われて、ベッドにゆっくりと降ろされた。
レイの顔の横に手が置かれる。左右の逃げ道が無くなり戸惑っていると、アルフレッドは上乗りになった。
「姉さんが無事でよかった。やっぱり外は危険だらけだ。これからも姉さんは俺が守るから。姉さんは俺のそばから離れちゃダメだよ。分かったね」
アルフレッドは、優しく額を撫で優しい声で諭す。
「これからもずっと、ずっと、姉さんを守ってあげるから」
うっとりと、熱を帯びた眼差しに、レイは心の中にポタリと冷たい雫が落ちた。
腕の中にいとも簡単に囲われても、レイにとって、この腕の中に居るのは違う気がした。
「アルにとって、私はまだ守らなきゃいけない存在なのか?」
「え、」
驚いて目を開くアルフレッドは、訳が分からないと唇を戦慄かせた。
「姉さんは、俺を連れ出して、俺との生活を選んでくれたんだろう?竜族なんかじゃなく、俺と一緒にいることを選んだんじゃないの?」
レイは、なんて言えばいいのか言葉に詰まる。
だが、レイは前から思っていた。
双子に生まれて、一緒に育った自分の片割れに、環境のせいで過保護になった弟に、伝えなければいけないと思った。
「違うアル。城を出たのは、アルを選んだとか竜族を捨てたとかじゃない。アルに自由になって欲しかったんだ。私のせいで、アルには昔から我慢させた。城に居たらずっとアルは『黒龍の神子』の弟でしかない。アルにはもう何にも縛られて欲しくなかった」
自分はまだまだ非力だけれど、昔とは違うのだ。
「私はもう何も知らずに守られてる柔な存在じゃない。守り守られる関係じゃなく、これからはアルと対等に、共に歩きたい」
じっと真っ直ぐに、目を逸らさずにレイは言う。
強い、頑なな眼差しに、アルフレッドの中で薄いガラスの地面がパリンと割れた。
◇
小さい時からアルフレッドの中には、一つの席があった。
そこにはたった一人しか座れない。ただ一つの特別な席。
その席に居るのは、当たり前のように自分の姉、レイだった。
黒髪黒目の双子の姉。
見目の違いだけで世間から弾き出され、生きることを否定され生まれてきた。
可哀想に。
非力で、小さくて、一人では生きていけない。
無条件で自分を信頼し、体を預ける、自分の片割れに、激しい庇護欲と独占欲が湧いた。
自分無しでは生きていけない。可哀想な姉さん。
俺がいなきゃ何も出来ない姉さん。
姉さんにとって、自分が一番なら、俺の特等席は姉さんの為に空けてあげよう。
何を差し置いても、アルフレッドの優先順位は、レイだった。
何年も何年も、そこには姉さんが居たはずなのに。
いつから姉さんは俺を見なくなったの?
どうして、新しい世界を知り目を輝かせ、席を立とうとするの?
ダメだ。
捕まえないと逃げてしまう。
去ってしまう。
どこかに行ってしまう。
捕まえなきゃ。引き止めなきゃ。
特等席を綺麗に飾って、お菓子も沢山用意して、邪魔をするものは排除して。
甘やかして優しくして、愛を囁いて、誰よりも一番に大切に大切にしていた、たった一人の存在。
だけれど、姉さんは立ち上がり歩き出した。
引き止められない。
手を伸ばしても届かない。
もう届かない。
届かない。
席には誰もいない。
ぽっかりと、穴が空いた。
アルフレッドは悟った。
「そうか。俺はもう必要ないんだね…」
言葉にした途端に、怒涛の感情が溢れ、一筋の涙が流れた。




