45.
田畑が潤い、この国は変わった。天気は時に煩わしく民を困惑させたが、それ以上の恵みに人々は感謝した。空を流れる雲は形を変えて自然に溶け込み、やがてこの国の一部となる。
何でもない日常が戻りつつあった。
そんな時の流れの中で、レイはふと目を覚ました。
普段通りに朝起きて、当たり前のように伸びをする。
目の前で目をパチクリさせる大きな黒龍を見て、レイも同じく目をパチクリさせ、ふわりと微笑んだ。
「リオウか…?おはよう」
そう言って、小さな手を伸ばしリオウの鼻筋を撫でた。
耐えきれずに、黒龍の瞳から大粒の涙が落ちた。ぽろぽろと取り止めもなく。
「ど、どうしたの、リオウ」
「うわぁーん、レイのばかぁぁあ」
すると人型に姿を変えたリオウは、レイを抱き締めてさらに泣いた。
レイはただただ困惑して泣き止むまで背中をさするしかなかった。
ここは部屋と言うにはあまりに広い。足元は雲で覆われていて、まるで空の中にいるようだ。
リオウの棲み家なのだろうか。
リオウが龍の姿でも悠々に飛べるほど果てしなく広い空間に、何本かの装飾の施された柱が立っている。上下は雲の先に覆われて、どこまで続いているのか分からない。
その柱の隅に、スッと光が灯った。
そこから現れた人物に、レイは目を見開く。
「ランス…」
「レイ様…?」
風を切ったように走り出し、ランスロットはすぐに目の前までやってきた。
幻か幽霊でも見るように、わなわなと震えた手を伸ばし、レイに触れる。
存在を確かめて、ランスロットは込み上がる感情を抑えきれずに唇を噛んだ。
微笑みとも泣き顔とも違う、様々な感情が溢れた顔だった。
泣き顔は懲り懲りだ、と思ったレイだったが、この顔も困る。
ランスロットが愛おしく感じて困る。
「レイ様…お身体は大丈夫ですか?」
「うん…」
「龍神様、レイ様が気付いたならすぐに教えてください」
「今さっき起きたんだよぉ。嬉しくてごめんね」
やっと落ち着いたリオウは、へへっと笑いながら顔を上げた。
「身体は動きやすい?痛いところない?」
言われて関節を動かしてみる。凝り固まった感じはするが、痛みはない。
しかし、記憶が霞がかって曖昧で。
レイは二人の反応にいまいち付いていけなかった。
「身体は大丈夫。それより二人とも、なんでそんなに」
「覚えてないのかな?記憶が混濁しているみたいだね」
「レイ様はずっと眠っていたんですよ」
レイは自分がどれだけ眠り続けていたのか聞いて唖然とした。そして、記憶の霞が一気に晴れた。
その最後の記憶は、戦火に燃える大地と、鋭い剣先。
「ランス…身体は大丈夫?!怪我ない?!リオウ、地上はどうなったの?!鳥人族の故郷は無事な」
「はいはーい、ストップ。レイは全然反省していないね」
「…えぇ、何も分かっていません」
「え」
二人は目配せをして一つ頷く。レイは険悪な空気を感じて、たじろいだ。
寝ている間に何かが変わってしまったのか。
レイは自分の仕出かした事を反芻し、二人が怒っても仕方ないと思った。
「…ごめん…大丈夫なわけ…ないよね。私が居たからこの国も地上も大変な目に…」
更にリオウに全てを任せて、元凶の自分は長い間眠って何もしないとは。
レイは身体の全てがまるで邪悪な異形のように感じて、存在していることすら恥ずかしくなった。下を向いて二人の視線に目を合わせることが出来ない。このまま自分の存在など空気の中に消えてしまえばいいと思った。
ふと、顔に手が触れる。顎に優しく触れ、顔を上げられる。目の前にはランスロットがジッと目を合わせた。
キラキラ光るエメラルドの瞳。その宝石のような輝きに吸い込まれて、レイは無言のままランスロットと向かい合う。
「レイ様。私は怒っています」
改めて言われて、レイはビクリとしたが、言葉に反して目の前の瞳はあまりに優しかった。
「レイ様は…自分の命を蔑ろにしましたね。私は許しません」
ランスロットは自分の身体が傷付いたかのように辛そうに言った。
「許しません。人を救うよりも、レイ様はまず自分の命を粗末にしてはいけない。何故、自分を大切にしないのですか。二度とあんな真似はしないでください」
背中を斬り付けられた時、レイは最期にランスロットの顔が見れて良かったと思った。それだけで幸せだと思ってしまった。
だが、それは余りに自己中心的な考えだ。ランスロットにとって、あれが最期のレイの姿だったら、どんなに悔やんでも悔みきれない。
レイが眠りから覚めない間、あの時の姿ばかりが思い浮かび、ランスロットを苦しませた。
「どうか…生きることを諦めないでください!」
ランスロットは涙を浮かべて、レイの手を握った。その震える手が、あまりにも優しくて温かくて。レイの心にランスロットの言葉がストンと落ちる。
「私は生きてていいのかな…?」
生まれてすぐに、レイの存在は『忌み子』でありこの世に必要とされなかった。生きていてはいけない存在だった。レイにとって生を諦めるのが当たり前だった。今回の件で自分の存在は罪だと実感した。
だけれども、目の前の優しい人は言うのだ。
レイの全てを受け入れて、包み込む。
「えぇ、私と共に生きましょう」
その言葉は、光り輝く希望の道筋を描いた。
目の前がキラキラと輝く宝石のように美しく感じた。
レイにとってそれは、これ以上に無い幸福の言霊だったのだ。




