29.
部屋の中にはランスロットだけでなく、タイザーとロキもいた。そして離れた所に、何故かオスカーの姿があった。
レイは無意識に身体が強張る。
視界の間に入ったタイザーは、近くの椅子に座る。そして深い溜息を吐いて言った。
「過労だ」
「かろう…?」
意識がまだ朦朧として夢見心地だった。冴えない頭の中にタイザーから言われた馴染みの無い言葉がまわる。
かろう…?クエスチョンマークがとんだ。ベッドに寝ていて身体は怠いが、おかしな話だ。
「それは診察ミスだ。働いていない私が過労になど、なるはずがない」
朦朧とした意識の中、レイの思ったまま口に出す悪い癖が出る。敬語も忘れタイザーに反論すると、タイザーの額に一つ二つと筋が浮かんだ。
「ほぉぉ。俺の診断が間違っていると?」
押し寄せる波のような怒りを感じ取って、レイは今日何度目かの失敗を味わう。
「ロキ、最近の神子様の睡眠時間は何時間だ?」
「え、え…と、六時間かと」
「あぁ?嘘つくな!」
「ひっ!あの、寝室に入るのは早いですが、いつも朝まで灯りがついているので、かなり夜更かししてると思います!」
「ランスロット殿下…神子様の講義は毎日何時間入れてるんだ?」
「…タイザーとの勉強時間以外はほとんどです」
「だよな…俺も気付くのが遅かった」
タイザーは頭を抱えた。分厚い本を渡しても次の日には全て読んでくる。当たり前のように平然とこなして来るから感覚が麻痺していた。
ザッと計算してもレイのここ最近の睡眠時間は一、二時間だ。日によっては徹夜しているのかもしれない。それを何ヶ月続けていたのか。
人が頑張る姿は嫌いじゃないから、やれることはやれ、とつい見守ってしまった。
だがそれは、根性論じゃないか。医務官として見過ごすべきではなかった。
「バカが。しばらく講義は休みだ」
そう言い放つタイザーに、思わずレイはタイザーの袖を掴んだ。
「嫌…だ」
「…おい」
「私には何も無いのに…取り上げないでください」
「レイ…」
「頑張りますから…!もっと頑張るから!」
情緒不安定なのか、今日は涙腺が弱い。涙を流しながら訴えられて、タイザーは喉の奥から変な声が出た。
隣にいるランスロット殿下のキツい視線が痛い。
決して突き放した訳では無いのだ。
「レイ、落ち着け。だぁぁあ!てめぇのせいだぞオスカー!てめぇが余計なプレッシャーかけるから、元々全力で頑張ってる奴のタカが外れたんだ!責任とれ!!」
突然吹っかけられたオスカーは、ビクリと肩を跳ね上げた。恐る恐るとレイの元に近付く。
レイはレイで、オスカーに苦手意識があるので、近付く程に逃げ場の無い狭いベッドの上でも、距離を取ろうとする。
まるで、小動物を虐めている気になる。
「オスカー様…」
以前と違う呼び名に、オスカーの顔は強張った。さらにレイは土下座のような体勢で頭を深々と下げるのだ。
「お見苦しい所をお見せして申し訳ありません。ご無礼をお許しください」
巨体な竜族の前で縮こまる小動物。ここまでさせておいて、実はオスカーよりも神子様の方が身分が上だ。その場にいた誰もが、レイの反応に固まり、そしてオスカーに憎悪を含む睨みをきかせた。これは信仰心の根深い竜族のサガだ。黒龍の神子様に何をさせてやがるテメェ、そんなにテメェは偉いのか?何様のつもりだ?の現れだ。
身分不相応な場の空気に、一番耐えられなかったのは信仰心が一番強いオスカーだった。この時やっとタイザーの怒りの理由を理解した。
「神子様。おやめください!私が間違っておりました」
ガバっと今度はオスカーが平伏す。
「慣れない地で不安の中、追い詰めるような事を言ってしまいました。申し訳ありません」
縮こまるレイは、恐る恐る顔を上げた。目の前には自分より大きな身体が、地面にめり込まんばかりの土下座をしている。
レイにはこの状況が理解できなかった。
宰相様が何故、自分に頭を下げるのか。
自分の応対がまた間違っていたのか。
情緒不安定でマイナス思考の無限ループに陥ってしまう。
「オスカー様が、何故謝るのですか?」
咎められこそすれ、謝られる理由は分からない。しかし、オスカーは平伏したまま頭を上げない。
お互いに非があると謝り頭を下げる光景に、次第にレイは可笑しくなった。
「ふふふ」
思わず笑いが漏れる。場違いと思いつつ、口元は緩んだ。
オスカーはゆっくりと顔を上げた。
「神子様…?」
「互いに謝りあっていては終わりがありませんね。私は謝られている理由も分からないのに可笑しな話です」
その時、オスカーは初めて間近でレイと目があった。澄んだ漆黒の瞳が、美しく弧を描き、慈愛に満ちた微笑みに、オスカーは見惚れた。
「以前オスカー様のおっしゃった事は、何も間違っていません。私は世間知らずで力もない。それに幼顔で泣き虫でチビっ子で筋肉も付かないし体力もないし常識もないし敬語も使えないし…」
「そこまで言っていません!」
「言わずともがな、分かっております、分かっておりますとも」
オスカーは驚いた。この神子様は自分が想像していた以上に、自己評価が低いのだ。それを、知らぬなら教えてやるとばかりに偉そうに指摘した過去の自分を悔いた。
幼顔は、見惚れるほど神秘的で愛らしく。
小さく力もなく筋肉も付かないのは、竜族に比べれば当たり前のこと。
世間知らずで常識もないのは、17年間も外の世界を知らなかったから。
泣き虫なのは、環境の変化に心がついていく時間が足りないのだ。
当たり前のこと。それを未熟と受け止め努力する。その高い意識を何故理解してあげなかったのか。
オスカーは恥じた。
「未熟なのは私の方ですね…」
先代の宰相…祖父ならば、この小さな神子様を溢れる愛情で包み込み、全身全霊で護るのだろう。
(先代の宰相と比べたら雲泥の差…か)
不本意ながらもタイザーの言葉を真摯に受け止める。
「神子様。自分の身体も管理できないのは、頂けません。過労など、仕事もこなしていない貴方がなる病ではありませんよ」
言われた内容はキツくても、言葉の声音は優しくて、レイはオスカーの瞳をジッと見た。
切れ長の目は弧を描き、エメラルドの瞳に満ちる。
「頑張っているのですね。この国で生きるために。貴女がこの国で生きたいと願うならば、私は貴女の全てを受け止めます」
それは、レイが講師に教わった礼儀作法。まるでお手本のように美しい所作の最敬礼だった。




