3.洗濯日和の空の下
「その節はごめんね」
これお詫び、と差し出された箱は包装紙こそシンプルだったが、よくよく見れば有名ブランドのロゴがしっかりと印刷されていてメロディは静かに空を仰いだ。
洗濯日和のいい天気である。視界の端にはためくシーツはたった今まさに干し終わったところで、声を掛けられたタイミング的に一応の配慮はしてくれたらしい。
「あの、坊ちゃん。これは一体」
「お詫び。この間の。僕が引っ張ったせいのアレ。ごめんね。ああなるとは思ってなくて。ごめんね。首とか、背中とか。メロディ、痛かったよね。ごめん。ごめんなさい」
ぽつぽつと寄越される回答はほぼぶつ切りの単語ばかりだが、謝罪だというのは理解が及んだ。なんといってもごめんの比率が多い。多い、というか、多過ぎる。真摯な態度はともかくとして流石に四回は多いと思った。冒頭の一言も加えると通算で五回も謝られたことになる―――――キャルム・ドニエの後悔と反省はものすごく伝わってくるのだが、被害者であるメロディ自身はそこまで気にしていなかったのでなんというか逆に気まずい。
「ああ。あれはその、なんといいますか………事故みたいなものだと思っていましたので、坊ちゃんが謝るようなことは何もないかと」
「わざとじゃなくても迷惑はかけたし、僕が引っ張ったせいだから。ごめんね? 痛み止めの薬とか、お詫びいろいろ考えたけど、一週間前のことだから薬とかもらっても今更かなって………」
今にも死にそうな表情で徐々に声のトーンを落としていく美少年の言う通り、彼がメロディを引き倒してしまったのはちょうど一週間前だったので確かに薬をもらったところで今更だなあとは思う―――――だって、あのあと当日のうちに雇用主である老婦人から「うちの孫がごめんなさいねえ」との謝罪と労りと治療代薬代及び迷惑料とお詫びの気持ちをきちんと頂戴しているので、本当にもう今更だった。
そもそも、メロディはそれなりの頻度で祖母宅に遊びに来る“雇用主の孫”のちょっとした奇行に慣れているといえば慣れている。詳細については他でもないキャルム坊ちゃんの名誉のためにちょっと伏せさせていただくけれども、雇われの住み込みメイドとしてはおよそ奇行としか表現出来ないあれやこれやを目撃したところで知らぬ存ぜぬを通すしかない。
流石に巨大な花束を「きみにあげる」と正面切って押し付けられたあの瞬間は何事だ退職勧告か? などと穿った解釈をしてしまったけれども、個人的な贈り物をされているだけだと分かってしまえば意味不明さの方が先に立ったのでその後の展開に対しても怒りや憤りの感情はなかった。
「ええと、坊ちゃん。あの件でしたら奥様から既に手厚いケアをいただいておりますので、ご心配には及びません。お気持ちだけで十分です、ありがとうございます」
「いやきみどうして頑なに僕から物を受け取ろうとしないわけ? じゃない、違う、そうじゃなくて。あの、そのう………自己満足だけども、お気持ちだけじゃあ僕がすっごく嫌だから、お詫びってことでとりあえずコレを受け取ってくれると助かるんだけど」
「………はい。そういう、ことでしたら………頂戴します………ありがとうございます………」
雇用主の孫にここまで言われたら受け取らないと逆に角が立つ、と瞬時に判断したメロディは、感謝の言葉を口にしながら大人しく己の手を差し出す。ほっと小さく息を吐いたらしいキャルムが彼女にそっと渡した箱は思った以上に重みがあったが、胃にのしかかる心因的な負担の方が重たく感じてメロディの気は休まらない。
そんな彼女のぎこちない笑顔からなにかしらを感じ取ったらしい美少年は、その芸術品じみた造作の顔に焦燥と困惑の色を混ぜながら些か食い気味に言葉を発した。
「言っておくけど! 大したものじゃないから! いやあのそのあくまで『お詫び』として渡す以上粗末なものじゃ誠意が伝わんないから流行りのブランドの商品にはしたけどそこまで値の張るものじゃないからとにかく重たくはない! はず! だから! 気にせず使って―――――くれると、うれしい」
紡がれた懇願は祈りに近い。必死な様子は崩さないまま徐々に自信を喪失していき窺うような眼差しになる澄んだ青色を見上げながら、メロディは胸中で平常心を保てと自分自身に厳命していた。
社会人として笑え、とにかく、今は笑顔を作れ。なるべく柔らかく自然にだ―――――そんな指令を出している脳の信号を感じつつ、仕事の出来る敏腕メイドの表情筋もまた仕事が出来ると証明するが如くに振舞う。
「ありがとうございます、大切に、使わせていただきますね。坊ちゃん」
そう返したときのキャルムの変化は、劇的といえば劇的だった。固まって、綻んで、仕事の合間に時間取らせてごめんねと上擦った声で謝罪を入れながら上機嫌かつ満足そうに踵を返して去っていく。スキップでもしそうな足取りで、軽やかに離れていく後ろ姿にメロディは使用人らしく頭を下げた。そうしてたっぷりと三十秒を数えたあたりで顔を上げる。
「………なんなんだろう、本当に………」
呻いた声音は掠れ気味、痛みを訴える胃の内側と不整脈を疑う心臓にげっそりとした何かを感じつつ、彼女は受け取ったばかりの箱を緩やかな動作で胸に抱えた。洗濯日和の空の下、はためくシーツがひらひらと視界の端で踊っている。
いけない、早めに準備しないと坊ちゃんの分のランチがない―――――己の職務を思い出し、彼女はいつもより一人分多い食事を作るべくその場を離れた。特に前触れなくやってくる気紛れな孫の食事まで用意しなくて大丈夫、とは優しいマダムの気遣いだけれど、雇われ住み込みメイドとしてはその言葉に甘えてもいられない。
本当に―――――“キャルム坊ちゃん”が遊びに来た日はルーティンが少しだけ狂う。
単純にそう認識していたから、自分で自分を急かすメロディは洗濯籠を回収し忘れてそのまま外に置いてきてしまった。
はためくシーツと青空と、柔らかな春の日差しの下で、贈り物を抱えて足早に去るメロディの遠ざかっていくばかりの背中を、置き去りにされた洗濯籠は何も言わずに見送っている。
ホワイトな職場(解釈による)