12.儘ならないのが人生か
おしまい。
可もなく不可もない娘に、美少年が構う理由は何か。
まさか恋ではないだろう。そんな創作劇のような夢に浸れる神経は、メロディ・ラインの持ち合わせにない。現実的、というよりも、危ない橋など渡りたくないと怖気付いているだけだ。思考回路の飛躍を許す発想と熱量と度胸がない、冒険よりも安寧を願うタイプの町人A。ありふれたその配役に文句を垂れることはなく、異論を抱くことさえない。メロディは自分で自分自身をそういうふうに定義している。
だからこそずっと不思議でならず、解せないからこそ避けていた―――――早々に除外していた可能性が実は一番近かった、などと他でもないキャルム本人の口から明かされたところで謎がひとつ解けただけで感動もときめきもなかったけれど、そういう経緯だと把握は出来たから幾分か思考の幅は増える。
それに伴って心の方にも僅かな変化が生まれていた。
「キャルム坊ちゃんは『あなたのことは今のところお顔くらいしか好きじゃないです』とか面と向かって言う女と結婚出来ます?」
「えっ、メロディって僕の顔は好きなの!? ヤッタァ!!! 美少年で良かった! 結婚してくれたら毎日好きなだけこの整った顔が見放題だよ! お得! たぶん目の保養! というわけで、結婚しよう!!!!!」
手土産に、ともらったブレッドを六枚切りの厚さに切り分けながら何気なく投げた質問にものすごいポジティブさと自己肯定感の高さで食い付いてきたキャルム坊ちゃんの勢いに任せて頷くことは社会人として憚られたので、メロディ・ラインはパンナイフを置いて静かに視線を彼へと向けた。
ちょっと怖いな、という気持ちがないわけでもないがキャルムはとにかく顔が良いので大抵のことはどうでもよくなる。いろいろあって一足飛びに求婚までされてしまったメロディは現実に向き合うこと一時間くらいで実は既に答えを得ていた―――――率直に言ってしまうなら、最初から彼の顔は好きだ。それこそ、会ったその日から。
「でも坊ちゃん、あくまで顔だけなんですよ。好感を持てるポイントが。大抵の殿方はそういう顔目当ての女性を嫌がるものなのでは?」
「そりゃあ他の誰かに言われたら腹立つけどメロディが言うんなら気にならない。ていうかむしろこの顔面をもってしても即決してもらえない存在なんだな僕は、ってちょっと凹んでたくらいだから顔目当てで全然問題ないよ。ちなみにメロディ僕の顔のことどれくらい好き? 結婚出来そう?」
「わあキャルム坊ちゃんぐいぐい来る………ちょっと近いです近いです坊ちゃんお止めくださいわたくしに構う理由は分かったのでそのあたりの不気味さは解消されましたけれどもそれを差し引いても心臓に悪いんですよ坊ちゃんのその顔の良さは!」
一度ぶっちゃけたら素直どころか本当に形振り構わないにも限度があるなこの美少年、と若干忌々しく思いつつ、しかしぐいぐいと視界に入ってくる顔は最高に好みである。そういうことを口に出来るだけ進歩したと言えば進歩した―――――こんな顔面の持ち主がたかがメイドの自分如きに好意的なんてそんなことある? と数えきれないくらい己を律し続けてきたメロディの理性を他でもないキャルム坊ちゃんがめちゃくちゃにしようとしてくるこの状況は世間的でいうご褒美状態を通り越して最早ただのギャグだとしても。
「あんまり近くでまじまじ見てるとうっかり恋に落ちそうなんで………! 仕事に支障を来すくらい目で追いたくなるお顔してるんで離れてもらって良いですか………!」
「あっ、これメロディ僕の顔のこと相当好きだな!? まさか今までやたらと目ェ合わせないようにしてたのそのせい!? 仕事に支障が出るからだったの!?」
「いえ、雇われの身で雇用主の身内に懸想するなどという愚行に走らないよう己を律していたのは確かですが使用人としての距離感を保って仕事を続けたかっただけです」
「うぇぇぇぇんそれに我慢がならなくなったからお婆様んとこのメイドじゃなくて僕のお嫁さんになって欲しいなって口説いてるんだけど意外と脈がありそうで嬉しい! なお僕は顔だけの男ではあるけど実家が太いのと絵を描いていた頃の個人資産がそこそこあるのでそれなりの生活を約束出来るよ!!! あ、収入の見込みもちゃんとあるので金銭面の心配は本当にしなくて大丈夫。断じて甲斐性なしじゃあないよ!」
「わあ。聞けば聞くほど不安になるほど都合が良い求婚者様過ぎてなにかしら裏があるのでは、と思わず疑ってしまいますね」
「いやディディエのせいで裏も表もあの時に全部曝け出しちゃったんだから今更そんなのあるわけないでしょ………ねえ、僕こんなんだしやっぱり無理そう? 実家の権力フル活用で初手から強引に手の届く範囲に呼び寄せる男とか駄目だったりする? こっそり観察し続けた挙句一方的に盛り上がって迫るのは顔が良くても許されない系………?」
キャルム・ドニエが突然萎んだ口調で言い募るものだから、メロディは情緒の振り幅すごいなと思いながらも答えを返す。実のところ、彼女は彼が気にするそれらを大して気にしていなかった。
「個人的に、無理ではないです。人によっては駄目でしょうが、私は特に、そこまでは………まあ、顔が良くても許されないことは世の中にたくさんあることだけはきっちりと学んでいただきたいですが、坊ちゃんが私を気に掛ける理由と経緯が判明した時点でストレス原因の大部分は解消されたので実のところこれ以上の裏があるとは思っていません―――――実のところ、そのあたりは気にしてないです」
切っ掛けがあって、会いたくなって、だから手配をしたのだと聞かされたところで彼女の抱いた感想は「ああそうなんだ」程度のもの。恋に落ちる熱量も真実の愛の一端もまるで生まれることはなく、ただ胸のつかえが取れてちょっとすっきりしたなあくらいの軽さで受け止めていたら求婚された。そんな感じで。
話の流れで、結婚しようと言われて真面目に考えて―――――キャルム坊ちゃんの顔が好きだな、との本音に向き合いこそしたものの。
「正直に白状してしまうとそんな『顔が好き』程度の緩さであんなにも私の洗濯物発言に感銘を受けてくださった坊ちゃんの想いに応えるのも如何なものか、とおも」
「え、気にしなくていいでしょそこは。応えちゃおうよ。いいんだよ。きみと僕がいいってお互い納得してるならいいじゃんそれで。そんなの違うとか駄目だとか言ってくるやつどうせ外野だよ知らないよどうでもいいんだよ赤の他人の人生のあれこれをスナック感覚でぼりぼり消費して好き勝手言ってくるタイプのことは気にしない無い方がいいよメロディ!!! 嫌気がさすから! それこそスルー! ディディエぐらいの開き直りと口の悪さで対応してこ―――――それはそれとして、そういうメロディの真面目でちょっぴり卑屈っぽいけどちょいちょい図太くて逞しいところ、僕は好きだよ」
顔が良いひとに正面切って好きとか言われたら流石に揺らぐ。心は既に決まっていたが、予防線を張りたがる小心者の習性が思わぬ台詞を引き出したことにメロディは胸中で悲鳴を上げた。
メイドと貴公子の恋物語に甘い夢を馳せられる程に自分を買い被れなかった彼女は、美少年に言い寄られるとか本当に柄じゃないんだよなあと自覚しながら息を吐く。
「言葉でストレートに好意を伝えられるなら今度からは是非そうしてください―――――坊ちゃんのお顔とそういうところが、今のところは、好きですよ」
どちらかといえば平凡な娘は、卑屈ではない口振りでさっぱりとそう言い切った。今のところ、と挟んだもののそれは彼女の本心で、ぽん、と胸を押されたキャルムは大人しく半歩後ろに下がる。顔が好きならもう迫りまくって頷いてもらおう作戦を実行していた美少年相手に、メロディは軽やかに告げた。
「我儘を言うなら私自身はこの仕事を続けたいですし、働くならクビになる日までこのお邸で働かせていただきたいです………と、まあそれはそれとして。ちょっと個人的な話をしますと、私は学校の推薦でこちらの職を得たわけで、働きぶりに問題があると学校に迷惑がかかっちゃうんです。使えない人材ばかりの育成機関だと思われては後輩たちが困りますからね。使用人の分を弁えない言動は慎むのが鉄則、仕事は出来て当たり前、節度を持って使用人としてあるべき姿で振舞うべし………“わたくし”はそういうスタンスでご奉仕をしておりましたので、坊ちゃんのお気持ちも求婚も正直言って今は持て余します。というか、やっぱり顔目当てで雇用主の身内の純情を弄ぶメイドってどうなんでしょうね? 坊ちゃんは即決でそれでもいいから結婚しようとかゴリ押してきますけど、私としてはそんな温度差で坊ちゃんと結婚したくはないです。顔が好みと感性が好みで結婚とかそんなのすぐ破綻しそう、理由的にも熱量的にも一過性っぽくてなんか嫌です。坊ちゃんみたく魅力的な方に飽きられた挙句捨てられたらそれはもうかなり傷付きますよ―――――なので、ご提案なのですが」
嫌です、と断言しながら、なので、と提案を続けるメロディの姿に慇懃無礼を地で突き進む又従姉弟の影がちらりと過る。昨日催されたお茶会とやらで一体何があったのか、身構えておいた方がいい気がしたのでキャルムは我知らず呼吸を止めた。
結婚は無理でも、顔以外はそんなに好きじゃなくても、このお邸の住み込みメイドを続けたいなら続けてもらって彼女の長い人生における取るに足らない程度のささやかな交流くらいは許されたい―――――そんな祈りを捧げる彼の鼓膜を優しい声が揺らす。
「ありふれた返事で恐縮ですが、坊ちゃんさえご納得いただけるならまずは結婚を前提としたお付き合いから始めませんか? ただ、私は就業時間中一介のメイドとして今までどおりに誠心誠意働きますので坊ちゃんもどうかそのおつもりで、使用人としての距離感でご対応いただけますと幸いです。なお、休憩時間と休日は、その限りではないということで如何でしょうかキャルム坊ちゃん」
どこか必死に取り繕って、口早に捲し立てるように。メロディからの提案を聞いて、考えて、気が付いて―――――キャルムは普通に狂喜乱舞して嬉しさのあまり壊れ気味に叫んだ。
「すごい前向きなお付き合いの約束を取り付けたって解釈でいいかなメロディ要するにアレだよね恋人的な―――――ッ!!!」
「高い高いテンションが高いです坊ちゃんあと近い止めてくださいうわ顔が良いちょっと危ないです抱き着かないでくださいキッチンではしゃがないでください危ない休憩時間とはいえども就業中ですので節度をまもっ」
「孫とあなたのお付き合い成立記念日とくれば今日はもう仕事終わりでいいわよメロディ良かったわねキャルムお断りされなくて―――――!!!」
「エッ、奥様!? いつからそちらに!?」
ぬいぐるみを抱き締めようとする幼児よろしく迫り来るキャルムを押し留めながらメロディが思わず戸口を見ればそこにはこの邸の主たる優雅なマダムが立っていて、なんだかとってもほっこりしたお顔で残念な孫の初恋成就(仮)を喜んでいたが当事者としては恥ずかしいことこの上なかったのでもう消えたい。メロディがこの結論というかお返事に辿り着いたのはぶっちゃけ昨日のお茶会だったしマダムとローシェ・ディディエには既にそれとなくほんのりと伝えてあったとはいえど現場に居合わせられるのは流石に羞恥心が疼く―――――恋人期間を設けた方がむしろあっちは喜びますがたぶんあなたの想定以上に面倒臭いですよキャルム・ドニエ、とにこやかな笑顔で断言していたローシェの声が脳裏に蘇ってメロディは早まったかもと思った。
「やったありがとうお婆様! じゃあちょっとメロディ連れてくねディディエんとこで指輪注文してくる!!!」
「あ、お付き合い初日からそういう飛ばし方なら感性が合わないのでお別れしましょう」
「ごめんなさい嬉しくて調子に乗りました成立一分で破局は嫌ですごめんメロディ、見切りつけないで。見捨てないでください本当に」
「ご理解いただけて何よりです坊ちゃん―――――と、いうわけで、わたくしは仕事に」
「さっきも言ったけど今日はもうお休みってことでいいのよメロディ」
「就業規則がファジーなことになっていらっしゃいますよ奥様!?」
おほほほほ、と笑う祖母の完全勝利に終わるだろうな、と第三者のキャルムが確信するのとメロディが折れるのは同時だった。基本的に彼女が一番逆らえないのは雇用主であるマダムでありガーデンパーティーに参加したのも昨日の茶会に同席したのもそのお言葉があってこそである―――――だからこそ、孫の気持ちを知りながら交際を強制、強要することは一切口にしなかったのだがメロディの方が応じる覚悟をそれなりに決めてくれたというなら話は別だと言わんばかりに張り切っちゃうおばあちゃんだったりする。
「それじゃあお給料はちゃんと出すから孫の面倒を見てやって頂戴。就業規則に関しては明日改めて見直しましょう―――――だって仕事中は使用人として扱えと言われたところで絶対にそんな器用なことは出来ませんからね、うちの孫」
「なんてこと言うのお婆様、僕だってその程度の線引きくらい―――――出来そうにないので就業規則をなんかこういい感じにお願いします。隔日でお休みとかにならない?」
平気な顔をしてとんでもないことを要求していく“雇用主の孫”をこれから結婚してもいいと思える程に好きになれたりするのかなあ、とメロディはそっと天井を仰いだ。色恋沙汰には無縁だったので今はまだ何とも言えないが、少なくとも観賞用としてずっと眺めていられるくらいにはキャルム・ドニエの顔は好みである。
自覚すればする程に最低かもしれないと思いつつ、けれどたとえ一点だけでも興味を抱けるものがあるならきっとゼロよりはまだマシだろう―――――そんな着地点でいいのかと、問われたところで曖昧に笑って誤魔化す程度には図太く逞しい開き直りの境地に至っているので。
「よし、分かったメロディちょっと庭先でお手軽にピクニックとかしよう! 今日あったかいし天気もいいし、急なお休みにそれくらいの息抜きなら許されるんじゃない!?」
「指輪の購入からお庭ピクニックって振り幅がすごいですねえ坊ちゃん。分かりました、お付き合いいたします。ひとまず軽食をご用意して………坊ちゃんにいただいたこちらのブレッドでサンドイッチをお作りしますので、少々お時間を頂戴してもよろしいでしょうか?」
「もちろんいいよ! 手伝うことある? あ、僕やたらと図体でかいから此処にいたら邪魔だね、レジャーシートとかそういうの調達してくる係やっていい?」
「お願いします」
「任せて! 準備しておくから!」
幼児のようにはしゃぎつつ、お日様よりも眩しい笑顔を残してキャルムはキッチンを後にした。その後ろ姿を見送って、ときめいたりはしなかったけれどもなんかこう可愛いかもしれないと一瞬血迷った自分の胸を抑えつつ、和やかスマイルを爆発させているマダムを尻目にメロディ・ラインは己の抵抗など取るに足らないものでしかないのだと認めたくなくて呼吸を止める。
せめて顔以外で結婚してもいいと思える理由を探し出せないと彼に申し訳ないなあだとか、そんなこと気にしていなくもない。
「調子狂うなあ」
ぼやいたところでキャルムが来た日にはいつものことだ。そのうち慣れる。慣れなくてもどうにもならなくても儘ならない日々ばかりだろう。
そんな予感からは目を背けて怒涛の如くにサンドイッチを作りまくるメロディとキャルムがどんなピクニックを過ごしたのかは、洗濯物が良く乾きそうな快晴だけが知っている。
お付き合いありがとうございました!
またどこかでお会い出来たらその際はよろしくお願いします。