ほっくほくの渡辺部長
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年明け。
外は今日も肌寒い。
女性部長に狭い会議室へと呼び出された。良くはない議題であろうことは想像がついていた。部長は機嫌が悪いと、すぐ顔に出るのだ。そのへん管理職としてどうかと思うのだけれど、なにを言われても、どんな指示を受けても、ただひたすらに「へぇへぇ」と従うしがない課長のぼくよりはずっとマシなのだ……と思う。
正面に座る部長はノートPCのキーボードを小気味良くカタカタと叩くと、真剣な――というより、怖い目を向けてきた。ほんとうに恐ろしい目だ。たぶん、瞳の力だけで小動物くらいなら殺せるだろう。
「甲斐課長。このままの業績が四半期続くようであれば、いまの立場から退いてもらいます」
「えっ?」正直、寝耳に水だった。「そんな、待ってください、渡辺部長。これまで売り上げが停滞していたのは認めます。しかし、いくらなんでもそれを四半期で改善しろ、だなんて」
「私の言葉は、本部長の言葉でもあります」
「えっ、そんな……」
渡辺部長は顔立ちの整った、白い肌がほんとうに綺麗な四十の女性なのに、こういうときはすごく冷たく、また冷淡な笑みを浮かべる。
「もう、チームリーダーを昇格させるつもりでいます」
もう、もう?
だったらそれって、それこそ「もう」、決定事項なんじゃ……。
「納得してもらえるようであれば、特に給与面においてはそれなりに取り計らいます。お子さんが生まれたばかりなんでしょう? 会社はそこまで残酷ではありませんよ」
子どもうんぬんを引き合いに出される筋合いはない。国と国とのあいだのことで言えば、内政干渉でしかないではないか。でも、この場でそんなふうに言い返せるようなら、きっとぼくは課長「名課長」なんかでくすぶっていたりはしない。より大きな給料が得られるよう、もっと精力的に働いているはずだ。悔しいけれど、渡辺部長の言うことはいちいちごもっとも。ぼくは「いまの立場」がずっと続けばいいなと願うだけの男だった。会社は大きい。どんな荒波に晒されても、赤字に落ち込んだことはない。そんな場所において「いま」が「続けばいい」だなんて考えていたこと自体、虫が良すぎたのだろう。
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家――マンションに帰っても、妻に打ち明けられるわけもない。ぼくはそのへん、かなり気が小さい。ただ、どうあれ無視できる、あるいは無視していい事ではない。いつ言おう、いつ言おう。ぼくはどんどん、追い詰められる。
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そのうち、また渡辺部長に呼び出された。会議室に入ってみると、部長の隣にはチームリーダーの三宅くん(32歳)が座っていた。あらかじめ、部長に議題は告げられているのだろう。そのうえで心配そうな顔を向けてくるものだから、「ああ、三宅くん、きみはなんてイイ奴なんだ」と涙ぐみそうになってしまった。
「あの、課長、俺、その――」
「いいのよ、三宅くん、あなたは黙っていなさい」
ぴしゃりと言われ、三宅くんは口を真一文字に結んだ。
「甲斐課長、三宅くんよりあなたのほうが学歴はずっとうえです。しかし、一度、社会に出てしまえば実力主義。どこにいたからなどと、そんなものが役に立たないことをはおわかりね?」
「で、でも、部長、俺、ほんとうに三流大学の出身で――」
「三宅くん、あなたの学歴も職歴も問うていない。実績だけだって言ったでしょう?」
三宅くんはいよいよ押し黙ってしまった。泣きそうな顔をしているようにすら映る。でも、部長が言ったとおり、三宅くんが誰よりも汗水流してきたのを、ぼくは知っている。顧客がおかんむりの折、「フォローするよ」と申し出たのにもかかわらず、三宅くんが涙目ながらも「俺がやります」と応えた瞬間に、「ああ、こいつはぼくよりずっと立派な社会人だ」と思わされた。社会人に求められるのは慎重さに根差した知識ではない。強い積極性に基づいた行動力だ。以来、ぼくは三宅くんを認めていて。だったら、この人事にも首を縦に振るしかなくて……。
「四半期、待っていただけるんじゃなかったんですか?」
「甲斐課長、どうやらね、事を私より危ういと考える存在があるようよ」
胸に太い釘を打ち込まれたような気がした。
「上からの命令だということですね?」
「あなたをかばう余地があるのだとすれば、私だってそうしたわ」
「そんな空気すらなかったと?」
「力のある管理職が相手なら上だって粗野には扱えない。要するに、あなたはラインからはずれている。誰からも脅威に思われていない証左でしょうね」
「……三宅くん」
「は、はい、課長」
「もう代わろう。渡辺部長。辞令だけ、お待ちすることにします」
「課長……」
三宅くん、ついにはぽろぽろと泣きだしてしまった。
「涙を流すことで誰かが幸せになるのなら簡単だわ」
渡辺部長にはまるで取り付く島もない。
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夜、三宅くんに誘われ、社の近くの「和民」に寄った。近しいニンゲンらは若い頃からそのイニシャルをとって「W会議室」などと呼んでいる。ジョッキを空け、焼酎のお湯割りをしきりにすすりながら、三宅くんはやっぱり泣く。
「いいんだよ、ぼくのことなら。三宅くんにだって家族がいるんだし」
「俺はいつまで経っても『ぼく』としか言えないから、課長は舐められるんだと思います」
ぼくは苦笑した。
「むかしね、上長のまえで勢いで『俺』って言っちゃったことがあって、こっぴどく叱られたんだ。だったら、『ぼく』のほうがまだいいかと思ってね」
「……嫁さん、妊娠したんです」
「それはすごい。おめでとう」
「男か女かは、生まれてきたときの楽しみにしよう、って」
「それもいいかもしれないね」
「俺、課長の家の娘さん、本気でかわいいって思ってますから」
「娘も三宅くんのこと、おもしろいおにいさんだって言ってたよ」
三宅くん、いよいよテーブルに突っ伏してしまった。くぐもった声で、「たは、おにいさんかよ。俺、もうすっかりおっさんなのに」と嘆いた。
「もうぼくのほうが部下になるわけだ。気軽に『ウチに遊びにおいで』とは言いにくくなっちゃうなぁ……」
「だから、そういうこと、言わないでくださいよぉぉ……」
周りの客の視線を集めてしまうくらいの泣き声をあげる三宅くんの両肩を、ぼくは両手でぽんぽんと叩いてやった。
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言い方は悪い。すごく悪い。けれど、事実として、ぼくは窓を背負っていた管理職の席から、刑務所の食堂みたいな雑多な席へと追いやられた。いままで仕事をやっていた連中、構築、保守、営業、みながみな、気さくに接してくれようとしているのはわかる。だけど、そこには絶対に憐れむ思いが隠されている。そう考えると気が狂いそうになる瞬間があり、ぼくはそういうときには決まって、むかしのメールを読み返した。かつての栄光にすがるようにして。
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妻に話した。妻はぼくを責め立てた。もともとお金に執着する女性ではない。ただ、将来的な話として、娘の未来を慮った結果だろう。
ダイニングテーブル。
娘はもう寝ていて、ぼくと妻とのあいだに流れる空気は、当然、重苦しい。
「もう戻れはしないの……?」
「ぼくは名課長でしかなかったからなぁ」
「なにのんきなことを言っているの!」
「静かにしてほしい。起きたらどうするんだ?」
妻がいきなり席を立ち、冷蔵庫から缶ビールを持って戻ってきた。ぐびぐびと勢い良く空ける。普段から飲んでいるんじゃないかと疑いたくなるくらいの飲みっぷりだった。
「役職手当はなくなるってことでしょう?」
「まあ、うん、そりゃあね」
「でも、裏を返せば残業手当がつくってことよね」
「待ってくれないかな。いくらなんでもその言い草は――」
「働いてよ。それが夫の、父親の義務でしょう?」
そうとまで言われてしまうと、なにも言い返せない。
ぼくはその後、シャワーを浴びながら、少し泣いた。
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高いビル群に囲まれた一帯――その合間にある喫煙所で、明後日なんて見えず、明日すら見えず、ただ紫煙をくゆらしていた。古い知り合い――営業職の若者がやってきた。堤という。まさに客商売のニンゲンらしく「煙草の匂いがついたら困ることもあるから」との理由で禁煙を決意した立派な男だ。競争が激しい営業のなかにあって、今度、チームリーダーに昇進するのだと言う。「おめでとう」を言うと、照れくさそうに頭を掻いた。こいつだってイイ奴だ。飲みに行くたびに「奢ってくださいよぉぉ」と頼み込んでくる調子のいい奴ではあるけれど。ああ、それにしても、ぼくだっていつまで煙草を吸っていられるのだろうと考えると気が滅入ってきてしまう。
「ところで、知ってますか? 渡辺部長の話」
「ウチの部長がどうかしたのか?」
「あいつ、本部長と寝てるらしいッスよ。それで手に入れたのが、いまの立場だ、って」
「まさか」
ぼくはそれはないだろうと思った。たしかに、渡辺部長は向上心が強いだろう。承認欲求だって低いものではないはずだ。でも、それらとなにかとをなあなあに交換するタイプには見えない。欲しいものがあるなら自分の力で掴む。そういう女性であるはずだ。
ぼくはその旨を訴えた。
「どう考えようが、それは甲斐さんの自由っスよ」堤は忌々しげに舌を打った。「でも、そのくらいのほうに思っといたほうが、気が楽になったりもしないッスか?」
苦笑し、ぼくは小さくかぶりを振った。
「そんなわけないだろ?」
「そのへん、イイヒトすぎるから、甲斐さんは苦労してるってのにね」
そこまで言うと、堤がぼくの後方へと目をやり、「あれ?」と不思議そうな顔をした。ぼくもなんとなくそちらを見やる。渡辺部長だ。なんだか右へ左へと目を配り、言ってみればそう、こそこそしている、警戒している。どっちへ向かうのだろうと思っていると、向こうの建物の裏手へと消えた。ほんとうにどこに行く? なにか急用なのだろうか。
「ひょっとしたら、それこそ本部長と逢引きじゃないッスか?」なおも顔をゆがめる堤。「不潔ッスよ、あいつ。もうそうとしか見えなくなってきました。あー、マジ、最悪ッス。このこと、俺は絶対に忘れないッスよ」
「いや、でもな、堤、部長、いまは会議のはずなんだ」
「だ・か・ら、そんなの嘘で、ヤりまくってるって話なんでしょ?」
「ぼくは違うと思う」
「だったら、尾行してみたらどうッスか? 暇なんでしょう? あっ、いや、えっと、その……」
「暇だよ。暇だから、追いかけてみようと思う」
「えっ、冗談でしょう? マジッスか?!」
「部長の場合、きっと冤罪だ。ぼくはそう考える」
ぼくは早足で部長のあとを追う。
部長はJRの駅までの道のりを急いでいるようだ。
左右は警戒しているのに、背中はまるでお留守だった。
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部長の目当てはなんとまあ、JR駅前――港南口に出ているキッチンカーの「やきいも屋」だった。よほど好物なのだろう。明らかにまるっきり警戒心はとけていて、イートインの椅子のうえでもぐもぐ食べながらとても幸せそうな顔をする。言ってはなんだが年甲斐もなく、両足をぷらぷら振っている。子どもみたいだ。
わざわざWebの予定表に「会議」と嘘まで書いて、あの女性はやきいもを食べにきていたのか。「初犯」ということはないだろう。なんだかそんな気がする。微笑みとともにすぐにはけようかとも考えたのだけれど、部長があまりに幸福そうなものだから、ついこちらも眺めながら微笑んでしまった。
こちらとしては、気づかれるつもりはなかった。
向こうからしたって、まるで見つかるつもりなんてなかっただろう。
ただ、渡辺部長、あなたは少し考えたほうがいい。めっぽう美人で、パンツスーツもキマっていて、そんな女性が足をぱたぱたさせながら「おいしいーっ!」とでも言わんばかりにやきいもにかぶりついている。目立たないほうがおかしいだろう?
ぼくのことに気づいた途端、部長は喉にやきいもを詰まらせそうになったらしい。慌てた様子でペットボトルのお茶を飲む。それからぼくのことを左手で招いた。どんな杭、あるいは釘の刺されかたをするのだろうと、内心、楽しみだった。
「どこから尾行していたの?」
「社の――いつもの中庭からですよ」
「そ、そんなに?!」
「部長、まったくうしろは気にされませんでしたから。簡単でしたよ」
「簡単でしたって、あなた――」
「やきいも、お好きなんですね」
すると部長は、かあぁっと顔を真っ赤にし。
「わかりました。サボったのは事実です。社になんとでも報告なさい。どんな処分でも受け容れます」
「なんて報告すればいいんですか? やきいもを食べていたから罰するべきだ。ぼくはそんなふうに訴えればいいんですか?」
「え、ええ、そうよ。それのなにがおかしいのかしら」
「じゃあ、ぼくも食べます。そうしたら、おたがいに裁かれようがない。秘密の共有ってやつです」
ぼくは早速やきいもを一つ買った。800円もした。いい値段だなぁと思いながらも、ペットボトルのお茶がついてきたのでよしとした。
部長の隣にお邪魔する。
触れなくても華奢なのがわかった。
イイ匂いがすると言ったら変態的なのかもしれない。
「ああ、ほくほくしていて、おいしいなぁ」
ぽかーんと、そんな感想が漏れた。
「……甲斐、チームリーダー」
「はい?」
「……私を、恨んでいる?」
どことなく、俯いた部長は思い詰めているように見えた。
「恨みませんよ。ぼくだって、サラリーマンですからね」
「知ってるんでしょ? 私が本部長の女だとか、なんとか……」
「さっき、偶然、耳にしました。でも、部長はそんなヒトじゃありません」
部長が勢い良く顔を上げた。
「あなたが私のなにを知っているの!!」
だけど、すぐに周囲の目を集めてしまったことに気づいたのか、しおらしい表情、態度を示した。
「もう一度、言います。あなたは絶対に仕事熱心な女性です。それだけです」
「私もまたただのOLだからって軽んじているの?」
「OLだなんて、まだ言うのかなぁ」
「だったら私はなに?」
「仲間です。サラリーマンですよ」
すると、なにか言いかけたところで、部長は押し黙り、それから唇を噛んではにかむような笑顔を見せ――。
「やきいも」
「はい?」
「やきいも、部のメンバーにも買っていきましょう。もちろん、折半よ」
「なに無駄遣いしてるのって、妻に怒られるなぁ」
「諦めなければチャンスはくるわ。三宅くんに負けちゃだめよ?」
苦笑するぼくに、部長はウインクしてみせた。
ぼくはもはや、彼女となんの利害関係もないと言っていい。
とにかくぼくが守らなければいけないのはあくまでも家庭で、妻と子だ。
それでも、ふとしたときに、「このヒトのためならやってやろう」と思う瞬間がある。
それがある以上、ぼくは戦士なのだろうし、まだまだやれるし、がんばれる。