いつか王子様が ~都落ちした侯爵家のご令嬢~
『期待されなかった僕たちは』のヒロインサイドのお話と後日談です。お時間があれば先に『期待されなかった~』をお読みいただけると、わかりやすいかと思います。
「アグネス様、もう少しだけ肋骨を縮めるイメージで……」
ストランド侯爵家の一室で、王都一のドレスメーカーから来たお針子さんが無茶を仰いました。でも、何とか努力してみることにいたします。
「そう、そうです! ありがとうございます、アグネス様」
わたくしが笑顔で応えると、お針子さんは顔を赤くして「尊い……」と小声で仰いました。
その日もスケジュールは一杯でした。ダンスに語学に、最新の国際情勢を専門の先生方から教わる授業。
そして、ドレスの仮縫い。他のご令嬢は基本のトルソーをそれぞれの体型に合わせて調整してもらい、それに合わせてドレスを作るのです。ところが、わたくしの場合、僅かでも緩みがあってはいけませんとお義母様が仰るので、自分自身でトルソーを務めているのですわ。
お陰で食事もままなりません。時間的にも、体型キープのためにも。料理長が野菜もお肉もたっぷり入れた濃厚なポタージュを作ってくれるので、それで命を繋いでおります。
ストランド侯爵家の長女アグネス。それがわたくしです。もう少し補足するならば、王太子殿下の婚約者候補でございます。最初の顔合わせのお茶会では十人いた婚約者候補も、なんやかやと脱落したり辞退したりがあって、最終的に残ったのは二人だけ。
もう一人はサンダール公爵家の次女イヴォンネ様。わたくしは争うつもりはないのですけれど、彼女は負けん気の強い方。二人きりになると突っかかって来られます。本心のまま行動されるのは淑女としてどうなのでしょう? 少しばかり心配になってしまいます。
ところが、イヴォンネ様の剥き出しの本心が決め手になったのですわ。最終的に彼女が、王太子殿下の婚約者に決まりました。
後で聞いたところによりますと、交互に開かれていた王太子殿下と一対一のお茶会でイヴォンネ様が仰ったそうです。
『殿下のことをお慕いするあまり、無理をして頑張ってまいりましたけれど、わたくし、もう、これ以上は……』
そう言って涙した彼女に、殿下が絆されてしまったのですって。
『彼女を守ってあげたくなったのです』と言われれば『まあ、そうですか、おめでとうございます』としかお返事できませんでした。
婚約者候補選びも長期戦になっていましたから、殿下もお疲れだったのでしょう。
公爵家のイヴォンネ様は無事お話がまとまってよろしかったのですけれど、結果としてわたくしは余りました。
わたくしは、まだ十五歳。成人までに三年ありますし、特に問題があって殿下の婚約者を外されたわけではございません。他の婚約者候補を探す時間は十分にあるはず、でした。
わたくしが殿下の婚約者にならなかったことで当てが外れたのは、わたくしの義母です。
生母は、わたくしを産んですぐに亡くなっております。父は母のことを溺愛しておりましたので、幼い時から母親似のわたくしを見ると辛いと言って、すっかり疎まれておりました。それに乗っかったのが義母、父の後妻です。
わたくしが六歳の時、歳の近い王太子殿下の婚約者候補に名前が上がりました。義母は、それを好機ととらえたのです。
王家のため、侯爵家のため、是非是非、義娘を王太子妃にしてみせますわ、と公言し、まだ幼いわたくしに山ほどの家庭教師をつけ、教育を施しました。
傍から見れば、義娘の幸福を願い、心を砕く素晴らしい義母、に見えなくもありませんし、おそらく、そう見えるように振舞っていたのでしょう。わたくしを視界から遠ざけたい父の意向とも合致して教育費も潤沢。侯爵家ぐるみで未来の王太子妃づくりに邁進することになりました。
わたくしは王族になることに興味はありませんでした。でも、王太子殿下にお会いするため、当時六歳のわたくしを王宮に連れて行ってくれたのは父でした。お父様のお顔が近くで見られることが嬉しくて、わたくしは素直にその状況を受け入れました。その頃はまだ、自分が父に疎まれているなど思いもよらぬ無邪気な子供でございました。
物心ついた頃、ふと気付けば、わたくしは寝る暇も削られて毎日厳しい教育を受け、家族との団らんなどしたこともありませんでした。義母が産んだ妹が、父に優しく抱き上げられているのを見て心が傷つくこともないほど疲れてしまっていたのは、かえって幸いだったかもしれません。
心を殺して淑女教育に邁進した結果、わたくしは目に見える成績でぶっちぎりの一位。こりゃかなわん、とご令嬢を候補から外していただくよう、王家に申し上げた家もあったとか。
婚約者候補が、公爵家のイヴォンネ様とわたくしの二人に絞られたのは十二歳の時でした。それから三年、十五歳になるまでイヴォンネ様と比較され続けました。わたくしはそうでもなかったのですが、イヴォンネ様は比較されることで精神をかなり削られたようで、前述の王太子殿下の前での泣き言に繋がるわけです。それが決め手になるだなんて馬鹿らしい、いえ、面白いものですわね。
さて、当てが外れた義母でしたが、王族との謁見の場ですら黙って引き下がりませんでした。
「殿下のお相手に相応しくなるため努力した娘です。他の殿方との縁談があっても、承諾するかどうか……」
これまで被り続けた、継娘に心を砕く慈愛溢れる義母の仮面そのままに、王族方の御前で大げさに嘆いてみせたのです。
素晴らしい演技力だな、と黙って見ていましたら、王族方はすっかり騙されておいででした。王太子殿下もそうでしたけれど、この王家、少々単純すぎではないかしら……。
義母によって責任を擦り付けられた結果、王家から打診すれば断れないだろう、という話になってしまいました。
王太子殿下がたまたま耳にしていたという、ブラント伯爵家のご子息の名が上がりました。
わたくしは早速、これまで学んできた国内の経済の知識と照らし合わせました。ブラント領と言えば、農畜産が国内一盛んで、富んでいる土地。場所は辺境伯領の手前ですが、今は隣国との関係も良好です。王都に比べればのんびりとした田舎。生家から解放され、王族からも遠ざかって、少なくとも今よりマシな暮らしが出来るのではないかしら。そんなふうに考えました。
ところが、王家からの打診に対し、婚約者を探していたはずのブラント家の次男エーギル様は丁重に断られたそうです。お兄様を差し置いて、自分が先に婚約するわけにはいかない、と。それ以後のお話は侯爵家と伯爵家が詰めることになりまして、わたくしは蚊帳の外。
聞かされた結果は、跡継ぎではない長男のテオドル様との婚約でした。
婚約者が決まったという話を聞いてすぐ、義母から言い渡されました。
「伯爵家とは持参金含め、話は付いています。書類上の契約も済んでいますので、すぐに伯爵家のタウンハウスへ向かいなさい」
婚約、即、厄介払いとはせっかちな義母です。
タウンハウスまでは馬車で送りましょう、とやや恩着せがましく締めくくると、彼女は上機嫌でわたくしに別れを告げました。
挨拶をしてくれただけ、父よりはマシだったかもしれません。
部屋へ戻ると、数人のメイドが荷造りを手伝ってくれました。
「お嬢様、申し上げにくいのですが、お送りする馬車は一台のみ。
載せられる荷物はトランクが四個くらいかと」
なるほど。義母は強かです。恩着せついでに、出荷制限をかけてきました。
「衣類は最低限にして、ジュエリーを詰め込むのが正解かしら?」
持参金はすでに伯爵家に渡っているのでしょう。わたくしに現金を持たせてくれる気はなさそうです。
「それがよろしいかと。いざという時、換金しやすく嵩張らないほうが」
先祖から伝わるようなジュエリーは金庫に入っています。わたくしが王宮に上がる時に使っているのは、流行のものではありますが、若い娘向けでやや安価なもの。義母も、そのへんは見逃してくれるのでしょう。
王太子殿下の婚約者候補だったわたくしに、高価な贈り物をしてくださる殿方があろうはずもございませんもの。
ああ、そういえば、妹は誕生日に父から送られたピンクのダイヤが付いたネックレスをしていましたわね。つまらないことを思い出しましたわ。
そうこうするうちに、トランク四個の準備が終わりました。一個だけに身の回り品を詰め、残り三個にジュエリーを詰め込んでもらったのです。
見送ってくれた使用人たちに別れを告げ、伯爵家のタウンハウスに伺いますと、思いもよらないことになりました。なんと、伯爵ご一家は、すでに領地へ向けて出発された後だったのです。
確かに一緒に連れて行ってくださいとお願いはしておりませんでした。ですがせめて、多少なりとも道中の情報をお教えいただけたら心強かったのですが。きっとそれは、わたくしの甘えでしたのね。
途方に暮れておりましたら、タウンハウスを管理されている方がアドバイスしてくださいました。
「伯爵領まで行くのなら、まずは護衛を雇ったほうがいいですよ」
護衛は冒険者ギルドに相談すればいいそうです。確かにそうですわね。何は無くとも命を永らえて伯爵領にたどり着かなければ、何も始まりませんもの。わたくしは管理人さんにお礼を申し上げて、冒険者ギルドに向かいました。
冒険者ギルドに着きますと、御者が申し訳なさそうに告げてきます。
「お嬢様、伯爵家のタウンハウスまでの予定でしたので、もう時間が押しております。申し上げにくいのですが、ここで荷物を降ろさせていただいても?」
「まあ、ごめんなさい。気が付かなくて。
ええ。もちろん構わないわ。送ってくれてありがとう」
「くれぐれもお気をつけて」と何度も言われた意味を、わたくしは分かっておりませんでした。
冒険者ギルドのある通りは、わたくしが知っている大通りとはまるで違っていて、危うくトランクを全て失うところでした。
「せこい真似してんじゃないよ!」
鋭い声と共に、目の前に転がる数人の男性。
どうやってトランクを運ぼうか、暢気に考えていたわたくしは荷物を盗まれそうだったことにも気づかずにいました。
「そこのアンタ! 貴族のお嬢さんかい? 護衛も付けずにぼんやりしてると、命がいくつあっても足らないよ。気を付けな!」
「まあ、助けてくださったのですね。ありがとうございます」
丁寧にお礼を申し上げますと、冒険者らしき女性は呆れてしまったようです。
「ああもう、しょうがないねえ。護衛はどこだい?」
「護衛はおりません。今から雇うところですの。冒険者ギルドで相談するよう、勧めていただきまして」
「なるほど、そういうことかい」
そう言うと、彼女は地面に転がした男性(まとめて破落戸と呼んどきゃいい、と後から教わりました)たちを蹴飛ばしました。
「ほら、お嬢さんの荷物をギルドの中に運んで差し上げな!
今日のところは、それで勘弁してやるから」
破落戸さんたちは彼女に逆らえないのか、黙って従っています。
冒険者ギルドの中は人が多くて、ごった返していました。夜会のドレスほどではないにせよ、わたくしの外出着は目立つようです。視線を集めてしまうのですが、隣に姐御(破落戸さんがそう呼んでいました)さんがいらっしゃるお陰か、声をかけられることはありません。
姐御さんはわたくしを連れてカウンターに向かい、事情を説明してくださいました。職員の方が頷いて「二階へどうぞ」と促します。姐御さんは勝手知ったるようで、二階の一室に案内してくれました。
破落戸さんたちは部屋まで荷物を運んでくださったので、最後にお礼を言うと顔を真っ赤にしてモゴモゴ呟きながら部屋を出ていきました。なんだか少し、可愛らしく見えましたわ。
部屋は小さな応接室でした。しばらくすると、若い男性職員の方が入って来られました。
「ようこそ、冒険者ギルドへ。護衛をお探しと伺いましたが」
「お世話になります。ブラント伯爵領まで行きたいのですが、同行してくださる方はいらっしゃいますか?」
「まずは条件を詰めましょう」
「よろしくお願いいたします」
わたくしは、旅の心得が無いにもかかわらず、一人でブラント領までたどり着かなければならないこと、そして軍資金はトランク三個に入っているジュエリーだけであることを、お話ししました。
「トランクの中身を拝見させていただきます」
職員の方は、テーブルの上にトランクを載せ、目の前で鑑定を始めました。そして三個すべてを見終わると、書類に数字を書き込んでいます。
「概算ではありますが、お手持ちの資金がどれくらいか把握いたしました。次に、旅にどれくらいの費用がかかるか計算しましょう」
きっと、姐御さんの口利きのお陰なのでしょう。話がどんどん進んでいきます。
「アタシも口出しさせてもらうよ。まずは、乗合馬車は諦めた方がいい。こんな綺麗なお嬢さんが乗ってきたら、毎度毎度、大騒ぎになっちまう。変なのに目を付けられて、誘拐される可能性も高くなるだろうね」
「そうなると、自分の馬車を持つか、貸し馬車ですね」
「自分の馬車だと故障した時に厄介だ。御者も雇わなければならないし、ブラント領までの距離からすると、割高過ぎる。貸し馬車一択だね」
「ですが貸し馬車だと、本拠地からどこの街まで、と使える範囲が決まっている場合がほとんどです。何度か乗り継ぎをしなければなりません」
「このお嬢さんが、自分で馬車屋を見つけて交渉するのは大変そうだし……冒険者ギルドのある街で乗り換えることに決めて、あらかじめギルドに手配を頼むことは出来るかい?」
姐御さんは、わたくしをまるで身内のように案じて、考えてくださいます。
「多少の手数料を払えば出来ると思います」
「アタシの紹介状も付けよう」
「それはいいですね。王都の冒険者ギルドに所属するヴェロニカさんの紹介となれば、無下にされることはないでしょう」
「あの、とてもありがたいのですが、どうしてそこまで親身になってくださるのでしょう?」
素人が余計なことを言っては邪魔だろうと思い、ずっと黙っていましたが、わたくしはつい口を挟んでしまいました。
「女の子が一人で頑張っていたら、応援したくなるのは普通だよ」
ヴェロニカさんは、とても美しく笑います。王宮で目にしていた貴婦人方とは比べ物にならない美しさですわ。こういうのを、心の美しさが現れると言うのでしょう。
「ありがとうございます」
そうして、わたくしの旅程がほぼ組み上がりました。高位の冒険者であるヴェロニカさんの威を借りて、途中の冒険者ギルドを頼り、貸し馬車や宿の手配をお願いすることになったのです。
職員の方の計算によれば、わたくしの資金はギリギリ足りるだろうとのことです。
「さて、肝心の護衛なんだが、アタシの推薦をまずは検討してもらえるかい?」
「もちろんですわ」
しばらく待つと、一人の女性が部屋に来ました。わたくしよりたった二歳年上の十七歳とは思えない大人っぽさです。
「この子はエンマ。アタシが拾って面倒見ていた冒険者でね。腕は保証するよ。そろそろ独り立ちさせてもいいかと思ってたところだったんだ」
エンマさんは丁寧に頭を下げられました。でも、発言されません。
「男爵家の出なんだが、生まれつき声が出せないんだ。それで、後妻に虐められて。我慢できずに、家出したところを拾った。
女の子なのに家出するなんて、なかなか骨のある奴だよな」
生まれつき声が出せない方、と聞いて大陸共通手話を使うことにしました。
「おや、アンタ手話が出来るのかい? アタシは苦手でさ」
「普段はどうやって会話なさっていたのですか?」
「時間があれば筆談もできるけれど、そもそも盗賊や害獣に対峙してる時は、そんな暇はないからね。普段からの信頼で、切り抜けるのさ」
「まあ、それは素敵ですわ」
エンマさんに向かって、手話で『よろしくお願いします』と話しかけると『お任せください』と応えてくれました。
「今、何て言ったんだい?」
とヴェロニカさんに聞かれて言葉にすると、笑われました。
「アタシだったら『まかしときな!』って訳するところだな」
なるほど! そうですわね。人によって言葉遣いは違いますもの。
「辺境伯領なら知り合いもいるし、アタシも一緒に行きたいところだけど、しばらく冒険者稼業は休むつもりなんだ」
「そうなんですか?」
「子供が出来たんでね」
「まあ、おめでとうございます!」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
あら? 職員の方からもお礼が返ってきましたわ。
「もしかして、こちらが旦那様?」
「そう、アタシのダーリン。隙の無い後方支援が魅力なのさ」
ヴェロニカさんは大きなお胸で、隣の旦那様の腕を包むように抱き着きます。
「ヴェロニカさん、仕事中です」
「仕事中は冷たい所も魅力なんだよねえ」
ふと気付けば、エンマさんが目立たぬよう手話を送ってきます。
『姉さんはラブラブモードになるとめんどくさいから、聞き流して』
あら、ヴェロニカさんが気付いてしまいましたわ。
「ん? エンマ、なんだって?」
わたくしは少々焦りました。
「姉さんが力を貸してくれるから、旅はうまく行くよ、ですって」
「そうだね。もちろんさ」
エンマさんが小さく頷いて笑っています。わたくしもなんだか嬉しい。王宮の淑女方より、よほど素敵な嘘をつきましたわ。
その後、ジュエリーを全て換金していただいて、冒険者ギルドの口座に預けました。馬車も宿も中継地のギルドにお願いするので、こうしておくと支払いが円滑に出来るのだそうです。
幸先がいいことに、同じ方向に行く冒険者パーティが翌日出発の予定でした。それで次のギルドのある街まで同乗させていただけることになりました。
エンマさんの案内で古着屋に行き、目立たないための衣類を手に入れます。その夜はギルドの一室に泊まり、翌朝、わたくしの初めての旅が始まりました。
とはいえ、着いた街ごとに自由に見て回る、というようなことはありません。それでは乗合馬車を控えた意味が無いのです。護衛のエンマさんにも負担をかけてしまいますし、宿の部屋で大人しくすることにしました。
貴族の令嬢と護衛という体裁ではよくないので、わたくしたちは親戚を訪ねて旅する平民の姉妹を装っています。妹役のわたくしは身体が弱いという設定で、食事もお部屋でとることに。ドレスのために食事を控えていた弊害で、胃が小さく、たくさん食べる必要が無いのでよかったわ、などと考えていたのですが、エンマさんはそれを見逃しませんでした。
『お嬢様、田舎に嫁ぐのですから、体力が大事です。
もっとたくさん召し上がれるようにならないと』
それには少しずつ身体を鍛えるのがいいらしいのですが、なにせ旅の途中です。馬車の中や宿の部屋にいることがほとんど。
すると、エンマさんが座ったまま出来る運動を教えて下さいました。敵に捕らわれたり、閉じ込められた時でも、すぐに身体が動かせるように編み出した運動です、と仰るのです。ということは、そんなに過酷な状況に身を置いたことが何度もおありということなのでしょう。その人生経験に敬意を払いますわ。
他にすることも無いので、教えていただいた運動を真面目に続けました。やがて、硬い座面に座って長時間馬車に揺られることも、さほど苦痛ではなくなっていきました。素晴らしい効果ですわ。
食事の量も増えました。最初の街では、屋台で買って来ていただいたお肉の串焼きを一本平らげるのがやっとでしたの。ところが、最後の街では三本食べても、デザートのリンゴが余裕で入りましたわ。
ブラント領までは、馬車で最速一週間くらいだそうです。でも、わたくしたちはお金を切り詰めての旅ですので、速さは二の次。
ありがたいことに、王都の冒険者ギルドとヴェロニカさんのお力で、なるべく安く上がるように手配していただきました。その分、適当な貸し馬車が空くまでギルドの一室で待機とか、移動費を安くするために馬車がついでに遠回りの配達をするだとか、いろいろなことがありました。
結局、目的地までは三週間かかったのです。
ブラント伯爵家に着くと、出迎えてくださったのはテオドル様お一人。すぐに荷物を手にして、今後の住まいとなる離れへ案内してくださいました。
それにしても、テオドル様は清廉な方です。
王都で貴族ばかりに囲まれていたときは、どんな殿方もまずはわたくしを値踏みしました。容姿、衣装、振舞い。会う方会う方、挨拶など上の空でわたくしを採点するのです。
でも、彼は違いました。
彼はわたくしを見ていた。侯爵家の令嬢でもなく、着飾りもしていない、ただの娘を。
そして、旅の疲れを気遣い、温かく迎え入れてくださったのです。
本館から使用人が通いで掃除に来るという離れは、清潔に保たれていました。運ばれてきた夕食も、旅の疲れを気遣って胃に優しいものばかり。デザートはどう見ても、わたくしのために用意してくださったと思しき可愛らしさ。移動中に、前より食べられるようになっていてよかったです。そうでなければ、この心づくしのお料理がもったいなかったわ。
テオドル様ご本人から伺ったお話では、伯爵家の長男でありながら跡継ぎから外された、ということでした。でも、この生活の様子を見るに、使用人たちは彼を大切にしているようです。
わたくしも身の上のことをお話ししました。穏やかに相槌を打ちつつ聞いてくださるご様子に、話すだけでもホッとします。
無事に、ここへたどり着いたことと、彼の包容力に、すっかり安心してしまいました。
お話が一段落した頃、談話室の隅に古いけれど可愛らしい木箱があるのに気付きました。テオドル様の子供時代の玩具箱だそうです。
中を見せていただくと、木製の積木とともに何冊かの本が入っていました。子供向けのおとぎ話の絵本。わたくしは持っていなかったけれど、幼い妹が父の膝で読んでもらっているのを見たことがあります。その時のお父様は、見たこともない優しい笑顔でしたわ。
どこかで、わたくしには縁のないものと自分から遠ざけていたもの。今、初めてじっくり中を見ると、優しい色使いで描かれた絵が綺麗でした。
「古いものですけど、よかったらゆっくり読んでください」
テオドル様が仰いました。
わたくしの絵本は侯爵家の屋敷にも、父の膝の上にも無かったのです。伯爵家の離れのテオドル様の玩具箱の中で、わたくしを待っていてくれたのでしょう。
翌日からの生活は、とても穏やかなものでした。
テオドル様は領主のお仕事をほとんど任されています。お忙しいのに休憩時間にはわたくしとお茶をしてくださいます。その気遣いをとても嬉しく思いました。
使用人は本館からの通いで、ずっといてくれるのはわたくしの連れてきたメイドのエンマさんだけ。
そうです、エンマさんについては、王都からの護衛分しか報酬をお支払いしておりません。ですが、彼女はこの状況を見て
『まだ婚姻されていない男女を、二人きりには出来ませんので』
と、無給で残ってくれました。
わたくしとしても離れでの生活に合うよう、テオドル様に「一人で出来ることを増やします」と宣言しています。その先生として頼れるのは彼女しかいないのです。
ここは、ありがたく甘えさせていただくことにしました。
それから二か月後の事、初めて伯爵家の本館に呼ばれました。お客様、と聞いて、少々自分の格好が心配になったのです。もしも、身分の高い方でしたら、一着だけ持ってきたドレスと呼べる服に着替えるべきかと。
でも、テオドル様はどなたがいらしたのか察していて、着替えの必要は無いようです。
嫌ですわ。わたくし、失念しておりました。この離れではテオドル様が主なのですもの。彼はいつも普段着。当然、わたくしも普段着でいいに決まっておりました。
本館までは、手を繋いでエスコートしていただきました。正式ではありませんが、なんだか嬉しくて、少し恥ずかしくて。
本館でお待ちだったのは、グスタフ・ノルランデル辺境伯様でした。
もともと辺境伯様と親交のあったテオドル様が、わたくしのことを相談してくださったのです。
お話を伺うと、なんと、わたくしは既に辺境伯様の養女になっておりました。そして、現ブラント伯爵が自ら執務を行って、一年後に領の収益を九割以下に落としたら、伯爵位を取り上げるという話になっています。
その間、テオドル様はわたくしと一緒に辺境伯家で過ごすのです。
これまでテオドル様と一緒にいた離れは、住めば都と申しますか、狭いながらも悪くはありませんでした。実家の侯爵家にいた時は、義母の見栄から大変立派なお部屋に住まわせていただいておりましたわ。でも、見栄えが良いだけの家具や、身分をひけらかすための山ほどのドレスなど、何の意味があったのでしょう?
レッスンで疲れたわたくしは、立派で高価なお部屋に帰っても少しも落ち着けなかったのです。
ノルランデル辺境伯家は武人の家系です。無駄な装飾は省き、質実剛健が基本。お屋敷もそれに相応しいものでした。
出迎えて下さった辺境伯夫人、わたくしの新しいお母様はたいへんに趣味が良く、それが現れたお屋敷もたいへん好ましい場所でした。
「武骨だろう? 家具でもドレスでも、欲しいものがあれば何でも言ってくれ。可愛い娘を甘やかしてみたいからな」
「まあ、お父様、わたくしが堕落したらどうしますの?」
「責任取って、一生嫁にやらずに家に置く」
「辺境伯様!」
さすがのテオドル様が抗議の声を上げました。
「ひとつだけ不満を言わせていただけるなら」
「なんだなんだ?」
娘の初おねだりだと、お父様は嬉しそうです。
「テオドル様とお部屋が離れすぎですわ!」
伯爵家の離れは狭かったので、寝室は別でも距離は近かったのですもの。
「嫁入り前だ! 却下!」
「お父様の意地悪!」
初親子喧嘩に、談話室に控えていた使用人の方々がほっこりしています。
わたくしは真剣だったのですけれど、テオドル様は何かツボに入ったようで、笑いが止まらなくなっていました。
辺境伯家でのテオドル様は毎日、お勉強で忙しく、お茶や食事の時間しか会えない日もありました。
わたくしがしょんぼりしていると、お母様が話し相手になってくださいました。ふと思いついて、お母様にお願い事をいたしました。
「お母様、絵本を読んでいただけます?」
お母様は大きな娘が甘えることに呆れもせず、凛としたお声で読んでくださいました。
「ありがとうございます。お母様が読んでくださると、場面が生き生きと感じられますわ」
「お褒めの言葉、ありがとう。
アグネス、おねだりをたくさんなさいな。テオドルもきっと喜ぶわよ」
「まあ、そんな……」
テオドル様に何をねだろうか、考えてみると少し恥ずかしくなりました。
「ふふ、何でもいいのよ。こっちを向いて、ってそれだけでも」
「そうですわね。毎日、わたくしを見てくださるだけで、どんなに嬉しいかしら」
自分の少し火照った頬を両手で包むようにしていると、お母様が肩を抱き寄せてくださいました。
そんな日々の中、王都から思わぬ来客がありました。以前、侯爵家に来てくださった、王都一のドレスメーカーのお針子さんです。
「アグネス様! お会いしとうございました。
私はアグネス様でないと、デザインが浮かばないのです!
是非とも、貴女様のドレスを作らせてください!」
挨拶もそこそこに、物凄い勢いで話されます。
「王太子殿下の婚約者になられたイヴォンネ様は、第一線のお針子が揃ってお似合いだと褒めるようなものを作っても満足なさいません。
品よく仕上がったものに、まるで似合わない大きなリボンをつけるよう命じられた時には気を失いそうでした。
アグネス様が辺境伯様の養女になられた、と伺い不躾にも手紙を送りました。ドレスのデザイン画を同封しまして……」
それを見たお母様が彼女、マリアンさんを辺境伯家専属お針子兼デザイナーとしてスカウトしたそうです。
「あの頃は、侯爵家からの注文とはいえ、不健康なサイズのドレスをお作りしてしまい、申し訳ございませんでした。
今のこの、アグネス様の自然に輝く美しさ! ああ、腕が鳴りますわ」
それ以降、お父様はお金に糸目をつけずにマリアンさんの注文通りに材料を手配なさいます。お母様とわたくしの二人分です。
愛されている自覚のあるお母様は、不要なドレスこそ作らせませんが、お父様の顔を立てて、素晴らしいドレスを楽しんでいらっしゃいますわ。もちろん、わたくしも。
さて、一年が過ぎ、伯爵は期待通り成果を出せず、テオドル様が家督を継ぐことになりました。成人と認められる十八歳までは、辺境伯であるお父様が後見人となってくださいます。
婚姻までは二年あります。テオドル様はブラント伯爵領に戻りましたが、わたくしは実家となった辺境伯家住まいです。寂しい時間が増えてしまいました。時々はテオドル様を訪ねるのですが、お忙しいので長くはお邪魔できません。
伯爵家では、婚姻に備えて本館の改修が始まりました。いろいろなことが、前に進んでいきます。
テオドル様は領地経営に不安は無いのですが、貴族らしいことにはあまり触れて来なかったので、たくさん勉強なさっています。いざとなったら、わたくしがお助けできることもあるかもしれません。
婚姻の日が来るのは楽しみですが、その後、伯爵位を継いだ挨拶も兼ねて王宮に出向かねばなりません。本来なら、継いですぐに挨拶に行くべきなのですが、そこは後見人であるお父様がちょっと圧力をかけたようです。
王宮での夜会に備えて、テオドル様の学ぶ課目のひとつにダンスがあります。このレッスンの時間はパートナーとしてわたくしの出番です。
ところが、武人ではないものの元来よく身体を動かしている彼は、非常に残念なことにダンスの覚えが早かったのです。少しでも苦手だったら、補習が必要ですわと言い張って伯爵家に泊まれましたのに。
テオドル様はダンスの授業のある日は、いつも最初に小さなブーケをくださいました。そしてブーケと同じ香りのよい花で出来たコサージュを胸に着けていらしたのです。
ダンスの練習の日は、帰りの馬車でも辺境伯家の自室でも、ブーケのお陰でテオドル様とずっと一緒にいるような気がしていました。
そうして、やっとテオドル様との婚姻の日が訪れました。
マリアンさんに作っていただいたドレスは、先だって王太子妃になられたイヴォンネ様より、かなりシンプルなものでしょう。
でも、着心地が良くて動きやすいのです。式の後に教会から出た時、小さな女の子が差し出してくれたお花を、しゃがんで受け取ることが出来ました。お色直しのドレスも締め付け過ぎず、皆さんの心づくしのご馳走を十分味わうことが出来たのです。
マリアンさんのデザインは最高です。テオドル様にも絶賛されましたもの。
「え? うん、ドレスもとても似合って素敵だけれど、とにかく君が……アグネスが素敵だよ」
テオドル様がそう仰った後、二人で赤くなって俯いてしまいました。何か言いたげなお父様を、お母様が鉄扇で制していましたわ。
それから数日後、王都へ向けて出発する日になりました。辺境伯家の乗り心地のいい馬車に、護衛の騎士が十二人。街道は、そこまで治安が悪くも無いので、威圧的な意味合いが強いそうです。
王都にも辺境伯家の立派なお屋敷があり、常駐している使用人の方々は温かく迎えて下さいました。
「王都ってこんな街だったのですね」
翌日、お母様とテオドル様と三人で街中に出かけました。わたくしにとって三年ぶりの王都でしたが、思い出はほとんどありません。ここにいた頃は日々忙しく、侯爵邸でのレッスンと王宮への訪問の繰り返しでした。
テオドル様は市場まで行って農作物の流通の様子を視察なさる、ということで、お母様と一緒に先に馬車を降りました。連れて行っていただいたのは、可愛らしい雑貨を扱うお店でした。
「高価なものなら王都からでも出向いてもらえるけれど、ちょっとしたものは田舎だと手に入りにくいわね」
夜会に使うジュエリーを新調するにあたっては、王都の一流宝飾店の方がわざわざ辺境伯領まで訪ねてくれたのです。そういった高価なものであれば、充分な対価が払われますから出張しても損はありません。
平民用の雑貨のお店は伯爵領にもありますが、品質は今一つ。
貴族が集まる王都の雑貨屋さんは、なるほど、デザインも洒落ていて品質もそれなりなものが揃っていました。
気が付けば、わたくしは夢中になって店内の商品を見回っていました。
「アグネス、お父様からお小遣いをたくさん預かっているから、何でも買っていいのよ」
「ありがとうございます」
わたくしはもうブラント伯爵家に嫁いだ身です。でも、ここは甘えるべきところだと判断しました。
長い時間をかけて、わたくしが選んだものを見て、お母様は仰いました。
「あら、自分のものは?」
「わたくしは十分にいただいていますもの。自分で働いたお金ではないので心苦しいですが、気持ちを贈りたくて」
お父様にはカットガラスの小さなグラスを。お母様には鉄扇を彩る小さな飾り。そして、テオドル様にはガラスで出来た緑の木々を閉じ込めたペーパーウェイトを選びました。
「じゃあ、僕はこれを」
いつの間に店に入ってこられたのか、テオドル様が手にしていたのは布製の花のついた髪飾り。
「まあ、わたくし、そんなに時間をかけてしまいましたか?」
「女の買い物は時間がかかるものよ。予定通りです」
会計を済ませ、次は個室のあるカフェに行って流行りのケーキをいただきました。
市場を見てきたテオドル様は、伯爵領でも旅人の足を止めて宿泊を促せるような、観光用市場を催してもいいのではと話されました。お母様は、そういう場所でなら雑貨の品ぞろえが良くなるのではないかしら、と乗り気です。
王都の屋敷に戻り、夕食後の談話室で小さな贈り物を配ると、皆とても喜んでくれました。
「自分のものは買わなかったのか」
お父様が少し残念そうでしたけれど、先ほど、宝飾店から届けられたジュエリーの一式は両親からの贈り物なのです。
テオドル様は「この次の機会にはジュエリーもドレスも僕が贈る」と宣言なさって、昼間の雑貨店で買った髪飾りをわたくしの髪に着けてくださいました。
夜会当日。最後まで気を抜けません、と一緒に来てくださっていたマリアンさんが着付けを確認してくれました。
お母様とわたくしのドレスは縫製もマリアンさんの手によるものです。それとお揃いの、お父様とテオドル様の分はデザインのみマリアンさんで、縫製は王都のテーラーに頼みました。そちらもドレスに負けない出来で、四人の仕上がりを確認したマリアンさんは心からホッとした様子でした。
王城に着くと、会う方会う方、衛兵から案内係まで、非常に緊張しているようでした。特に名目のない夜会でしたが、どうやら、わたくしどもノルランデル辺境伯及びブラント伯爵一家が主賓扱いになっているようです。
どこで何をしていても堂々たるお父様と、凛としたお母様。そして、わたくしの夫であるテオドル様はテーラーの仕立てた正装を着こなし、シュッとしてキュッとして、ああ、なんて素敵なのでしょう!
王族へのご挨拶とご報告も無事に済み……いいえ、王太子妃になられたイヴォンネ様のお顔が引きつっていますわ。あれは、悔しい時のお顔。長年競い合った仲ですもの、それくらいは分かります。
でも、お針子のマリアンさんによればイヴォンネ様はファッション音痴。このドレスに思うところがあるのではなさそうです。となれば……
招待客の挨拶が一通り終わり、音楽が流れ始めました。最初の一組は、先日婚姻されたばかりの王太子ご夫妻です。二曲目には、わたくしたちも新伯爵夫妻として加わりました。
続けて踊っていらっしゃるイヴォンネ様が、チラチラこっちをご覧になっています。
分かりましたわ! テオドル様が素敵なので、思わず目が行ってしまうのです。相変わらず正直な方。王太子殿下がお気の毒ですわね。
ダンスの後、飲み物を頂いて歓談しておりましたら、遠くの方にストランド侯爵と後妻、その娘さんの姿が見えました。何か言いたげなお顔でしたけれど、どうやら、お父様が怖くて近寄れないみたいです。
そうこうするうち、王太子ご夫妻が近くに来られました。
「明日、王都にいる騎士団の対抗試合があるのだが、前座として私と剣を交えてみないか?」
殿下がテオドル様に提案なさいました。
「私の腕前は嗜む程度ですので、とても殿下のお相手が務まるとは……」
「気楽にやればいい。君はこれから社交界で顔を売らねばならないだろうし、いい機会になるだろう」
つまり、断れない申し出ということのようです。
「畏まりました。精一杯、お相手をさせていただきます」
お返事されたテオドル様は、特に動揺してはいませんでした。
翌日、約束通り、前座として王太子殿下とテオドル様の剣による勝負が行われました。会場は、王城にある騎士団訓練所です。
観客席には貴族が詰めかけていました。昨夜の夜会は伯爵家以上の出席でしたが、この会場には子爵、男爵家の方も入場できます。
アナウンスの後、前座試合が始まりました。刃を潰した剣を使用し、簡易な防具を着用しての打ち合いです。これは、殿下のお顔を見せる意味もあるのでしょう。
わたくしの目から見て、お二人は力が拮抗しているようでした。なかなか勝負はつかず、焦れて野次を飛ばした下級貴族が警備の騎士に追い出されました。
一旦、離れた二人が踏み込むタイミングを計っている時です。客席から小石が飛んできたのです。最初からの狙いだったのか、それとも手元が狂ったのか、小石は殿下に向かっていきました。
同時に踏み込んだかに見えた二人でしたが、殿下の剣はテオドル様の心臓をピタリと指して止まりました。
一方のテオドル様の剣は、飛んできた小石を弾いたまま、宙に留まっておりました。
「勝者、王太子殿下!」
歓声が沸きました。ほとんどの観客には、飛んできた小石は見えていなかったでしょう。小石を投げた者は、観客に紛れ込んでいた暗部の方に取り押さえられ、静かに連行されました。
犯人は元伯爵家夫人、テオドル様の義母だった方でした。
「あの男が悪いのです! けして殿下を狙ったわけでは……」
「あの男が、私の息子が継ぐはずだった伯爵領を奪ったのです。
夫が息子に継がせようと、これまで領を繁栄させてきたというのに」
「子爵の身分だなんて、王城で文官になっても碌な仕事をさせてもらえませんわ。やはり、伯爵でなくては」
テオドル様、お父様、お母様とわたくしは、隣の部屋で取調室の話を聞いていました。王太子殿下も、同じ部屋にいらっしゃいます。
「ブラント伯爵、私を助けてくれてありがとう」
「いいえ、狙われたのは私だったのです。私のせいで殿下を危険にさらしたとも言えます」
「犯人の目的が何であれ、このような事態を招いたのは警備の責任、ひいては王家の責任だ」
驚きましたわ。わたくしの知る王太子殿下は、十年近く婚約者候補の令嬢を拘束するような優柔不断のアンポンタンだと思っておりましたのに。三年見ぬ間に、ずいぶんと成長なさいましたこと。
「君は、犯人に対してどの程度の処罰を望む?」
テオドル様は考えていました。
「父の後妻であった人間ですが、情も無ければ恨みもありません。
危険な行いに走って周囲に迷惑をかけないような環境に置かれるなら、それで充分です」
「わかった、参考にしよう。
ノルランデル辺境伯ご夫妻、ブラント伯爵ご夫妻、長らく足留めして申し訳なかった。ご協力感謝する」
場所も場所ですので、わたくしたちは黙って礼をとりました。
「それから、ブラント伯爵、国一番の花嫁と末永くお幸せに」
祝福の言葉をくださった殿下は、少しだけ苦い表情です。
帰りの馬車の中、お父様がその理由を教えて下さいました。
「王太子妃殿下がな、充分な教育期間を設けたにもかかわらず、なかなか公務を全うできないようだ。華やかなことには積極的らしいが」
その尻拭いを殿下がしているのです。その結果として目を瞠る成長をされたのですね。
「イヴォンネ様は殿下にとって、よいお薬でしたわね。
彼女を選ばれたのは大正解ですわ」
「うちの娘はなかなか言うねえ。お父さんは感心したぞ」
後日もたらされた報告によれば、元伯爵夫人(事件当時は子爵夫人ですが)は籍を抜いた上で、鉱山へ飯炊きとして送られたそうです。
子爵となっていたテオドル様の実のお父様は爵位を息子のエーギル様に譲り、友人を頼って、その領地の騎士団で下男の職を得たとか。
子爵位を譲られることになったエーギル様ですが、犯罪者の子として文官になるのは無理だと判断して爵位を返上しました。地道に平民の営む商会で下働きを始めたそうです。
もう忘れてしまいたい方々のことですけれども、ついでに申し上げるならば、派閥は組まないくせに一大勢力となってしまったノルランデル辺境伯家&ブラント伯爵家の、覚えめでたくない家、と判断されたストランド侯爵家は、あらゆる貴族家から忖度されまして。結果として、数年後には伯爵家に降格されてしまいました。
わたくしの人生を振り返ってみると、十五歳までは王太子殿下の婚約者候補として生きる、それだけでした。
ところが、選ばれたとしても彼を夫として愛するのだ、というふうに考えたことはございません。そんなことより、もしも自分が選ばれたなら王族となって国のために働くのですから、立ち居振る舞いはもとより、勉学にも励まねば、と考えておりました。
おとぎ話では乙女が誰でも夢見る婚姻相手の代名詞、王子様その人だったのに。幼い頃に絵本すら読まなかったせいでしょうか、王族や王子様に対する憧れは持たなかったのです。
「アグネス、アグネス? もう陽が落ちるよ」
コンサバトリーの寝椅子で、うっかり寝込んでしまったようです。テオドル様が呼びに来てくださいました。
「ごめんなさい、ここは暖かかったから、つい」
「風邪をひかないでおくれよ」
テオドル様はそう仰って、メイドのエンマが掛けてくれた毛布ごとわたくしを抱き上げました。
「重いですわ。歩けますから」
「いや、全然重くない。部屋まで運ばせてくれ」
産み月までは、あと二月ほど。体重の増えているわたくしを、テオドル様は軽々と運んでくださいます。
王子様に関わりの深かったわたくしですが、結局、王子様が心の中に住むことはありませんでした。
わたくしの心に住むのはテオドル様。
伯爵家は新しく始めた観光市場が当たり、宿場町が出来て前以上に栄えています。国からも重要視されて、侯爵への陞爵のお話が出ているそうです。
「テオドル様、陞爵のお話、お受けしますの?」
「うーん、アグネスと過ごす時間が減らないなら、考えてもいいけど」
「まあ、考えるところはそこですの?」
「うん、大事なことだから。それに」
テオドル様はわたくしの額に一つ、キスをくださいました。
「生まれてくる子供と過ごす時間も欲しいし」
「はい、そうですわね」
「ね、陞爵なんてどうでもいいだろう?」
「はい、どうでもいいですわね」
エンマが居間の扉を開けてくれます。
テオドル様は一人掛けのソファを選び、わたくしはお膝の上。
「重いですわ」
「重くないよ」
そっと部屋を出たエンマが、静かに扉を閉めました。
「おも……」
言いかけたわたくしの唇は夫に塞がれてしまい、部屋には幸福な沈黙が降りました。