8.男装せずに、母とのお茶につきあいます
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口約束の婚約をしてしまった夜会の翌日。
ルーチェは朝食の席でも、食後に庭園を散歩していても、ミアのことが重くのしかかっていた。自室の本棚の前で浮かない顔をしているルーチェに、ヴェラは気分転換に市街へ出ようかと提案してくれたが、首を横に振る。
「今日は、昨日得た情報を貴族名鑑に書き加えたいからいいわ」
そう言って、取りやすい位置に置いてある分厚い貴族名鑑を取り出す。この名鑑はオルコット家特製であり、王宮から出ている情報に加えて各家で起こった紛争や後継ぎ問題、領地の経営状態などが手書きで加えられている。子供の頃から父親が持っている原本を書き写し、社交界に出るようになってからは見聞きした情報を継ぎ足していた。
「ルーチェ様は真面目ですね。常にオルコット家のために役立とうとされて」
「私が実際に動くことはないから、少しでも情報を集めておきたいのよ」
オルコット家は代々法律を専門とする職に就いており、ルーチェの父親は貴族間の紛争や問題を解決する立場だ。大きな問題は年に片手ほどしか起きないが、その度に父親は家族全員から情報を集めていた。ルーチェは昨日の令嬢や子息との会話から、知りえた情報や推測を書き記していく。
「最近、何かあったみたいですものね」
「そうなのよ」
先ほどの朝食の場でも、とある子爵令嬢と婚約を結んだ男爵家の周辺に怪しい動きがあると父が話していた。
「何か知らないか?」という問いに、首を横に振ったルーチェに対し、ライアンは少し考えるそぶりを見せてから、「あぁ」と声をもらした。
「あの、赤茶髪をした令嬢ですね。前に歌劇を見に行ったんですけど、そうかぁ、婚約しちゃうのかぁ。その男爵家についても、いくつか知っていることがあるので、あとで書斎に伺いますね」
と、デザートの果物を口に入れながら、答えていたのだ。無駄に女の子の間を渡り歩いているわけではない。両親も強くライアンの女癖の悪さを叱れないのは、こうやって情報をもたらしてくれることがあるからだ。
(ほんと、たまに使えるクズなのよね)
今までもライアンの情報が不正の追及や、不当なお金の流れの解明に役立ったことがあった。ライアンの行いは許せないが、情報収集能力の高さは認めないこともない。
ルーチェは複雑な気持ちを抱きつつ、情報の整理に時間を費やすのだった。
そして、午後。馴染みの伯爵家に挨拶に行っていた母が帰り、お茶に誘われたルーチェは温室に来ていた。給仕はヴェラと、母についている侍女が行い、花の香りに豊かなお茶の香りが混ざる。
「昨日、公爵家の夜会でいい茶葉をもらってね。それで外に出たついでに、ケーキも買ってきたのよ」
母親は花柄が散りばめられた薄緑色のゆったりとしたイブニングドレスを着ており、優雅な作法でカップを持ちあげた。手にはいつもレースの手袋をはめている。結い上げられた髪は銀色で、瞳は黄色。ルーチェと並ぶと姉に間違われるほど若々しく、気品ある美しさを纏っていた。
「ドライフルーツがたくさん入ったケーキなんですね。おいしそうですわ」
ルーチェはお行儀よくケーキを切り分け、口に運ぶ。生地の甘さに、ドライフルーツの酸味とナッツの食感、最後に洋酒の香りが鼻に抜けていった。ルーチェも母親に合わせて薄水色のイブニングドレスを着ており、フリルは控えめで腰の後ろにある大きめのリボンが目を引く。年の割には大人っぽいドレスだが、よく似合っていた。
「おいしいでしょう? 昨日はヘルハンズ侯爵夫人とお話しできる機会があってね、このケーキをお勧めされたのよ」
「あの騎士団の?」
ヘルハンズ侯爵家は、多くの騎士を輩出している家だ。ヘルハンズ侯爵は軍部の長であり、二人の令息は騎士団に所属している。歴代軍部に属しているため、社交の場に姿を見せることは少なかった。そして今、最も有名なのが、末の令嬢だ。
「えぇ、王妃殿下がいらしたから近衛騎士のご令嬢も来ていたの。騎士服を着た凛々しい姿をルーにも見せてあげたかったわ。背が高くて、体も鍛えていて……」
王妃の近衛団には女性騎士も所属しており、侯爵令嬢は男にも引けをとらない剣技と清廉潔白な性格、そしてその紅い髪から孤高の薔薇騎士と呼ばれ多くの男女に慕われていた。ルーチェは直接姿を見たことはないが、絵姿や伝え聞く話から同じ背の高い女性として親近感を持っている。
「それで、他にも……」
可愛いものも綺麗なものも好きな母は、昨日の夜会に来ていた見目麗しい人たちについて楽しそうに話す。それをルーチェはにこやかな微笑を作って、頷きながらお茶を飲む。それがいつもの光景だった。
そして一通り夜会の話が終わったところで、新しく注がれたお茶を口にした母親は、声の高さを落として「そういえばね」と話題を変えた。
「昨日、ライアンがまた女の子とうまくいかなかったらしくて……頬を赤くして帰って来ていたわ。指の痕までくっきり。いつになったら、婚約者を作るのかしら。縁談の話もたくさん来ているのに、二三度会ったきりで断られるし」
愚痴をこぼし始めた母親に、相づちを打つルーチェの胸の奥に苦いものが広がる。自然と昨日のあれこれが思い出され、気が沈んだ。
(言われてみれば、朝食の時のライアンの頬少し赤かったわね。……フラれたのか、フラせたのか知らないけど、うまくいかなかったなら私が身代わりになる必要なかったんじゃないの?)
ため息が出そうになるのを慌てて抑え、代わりに砂糖菓子を口に運んだ。甘いものを食べれば少しは気が安らぐ。
「けっこうひどい言い方をするときもあるみたいで、社交の場でそれとなく恨み言を言われることもあるのよ。こっちだって早く相手を見つけたいのに」
ふぅと息を吐く母の顔には疲れが滲み出ていて、ルーチェはさらに気が重くなる。
「これでも昔に比べれば大人しくなったのに、いい相手はなかなかいないものね」
紅茶に砂糖を入れてかき回す母の目は遠く、二人の子供の頃を思い出しているようだった。
「ライアンはすぐ癇癪を起こして……ルーはとてもいい子だったのに」
「お兄様は、なんでも自分が一番ではないと嫌でしたから」
ルーチェは困ったような顔で笑ったが、実際は笑えるものではなかった。幼い頃は、服に食べ物、おもちゃと気に入らないことがあればすぐに泣き叫び、ルーチェが母親と話していると怒って割って入ってきた。そしてその度に、両親も子守の侍女も、ライアンを抱きかかえてあやしたのだった。
無意識のうちにルーチェは唇を噛んでおり、ヴェラに紅茶に浮かべるレモンを勧められたことで気づいた。すぐに完ぺきな微笑に切り替え、口元をカップで隠す。
(今は癇癪は起こさないけど、やり口がクズなのよね)
両親の前では品行方正であり、情報操作がうまいので女性関係のいざこざも醜聞ではなく、若気の至りとして伝わっている。レモンの香りがついた紅茶を喉に流し込み、なおも続く母親の愚痴につきあう。
「本当はルーにもいくつか縁談の話は来ているのだけど、ライアンが決まらないことにはねぇ」
「大丈夫ですよ、お母様。まだ私には早いですし、お相手はお兄様しだいになるでしょう?」
この国は自由恋愛に寛容だが、家同士の都合で結婚することは大いにある。特にオルコット家は、ライアンが決められた結婚に従うとは思えないため、ルーチェの方で調整するというのが、暗黙の了解だった。
「それでも、社交界にもう少し出たらどう? 華やかな茶会や夜会は楽しいわよ? 同じ年頃のご令嬢もいるし、気になる殿方がいたらお話をしてもいいから」
その了解があっても、母親はこうやって時々ルーチェを社交の場に誘ってくれる。きっと本当にルーチェが添い遂げたいと思う相手ができれば、叶えようと頑張ってくれるのだろう。そんな母親の優しさが分かるから、ルーチェは首を横に振る。
「いえ、私は人の多いところは苦手ですし、お母様からのお話で十分ですわ」
何より、ルーチェが社交界に出たところで、まともなおしゃべりなどできない。誰もがライアンありきで話をし、兄に近づくためにルーチェの気を引こうとするからだ。そのため、ルーチェは必要最低限の社交の場にのみ参加し、あとは断っていた。
「そう……。招待状は山のようにあるから、気が変わったらいつでも言ってね」
「えぇ、もちろんですわ」
気が変わったらという言葉に、健気で可愛らしかった少女が思い出された。初めてルーチェとして仲良くしたいと思えた相手だ。
(でも、ライアンとの関係が切れれば、私とは話したくもないわよね……)
安易な望みを抱けるほど、ルーチェは令嬢たちに期待していない。ルーチェはカップを傾けお茶を飲み切り、流れ込んできたレモンを噛んだ。苦みが口に広がり、微笑みに潜むのは自嘲。それに気づいたのは、横から見ていたヴェラだけだった……。