7.男装で婚約したことを反省します/女装で婚約したことを開き直る
◆◆◆
心ここにあらずの状態でオルコット家に帰ってきたルーチェは、男装も解かずにソファーに倒れ込んだ。ソファーに座らせていた可愛いドレスを着たうさぎのぬいぐるみを引き寄せて胸に抱く。お気に入りのぬいぐるみを抱きしめていると、少し落ち着くのだ。
「婚約……しちゃった」
「はい?」
皺になるので脱ぐように促そうとしたヴェラは、上着に伸ばしかけた手を止めた。馬車から降りてきたルーチェの顔色が悪いとは思っていたが、ライアンの代わりに令嬢に断りを入れた後は、沈むこともあったので今回もそうだと思っていたのだ。一瞬理解ができず、言葉の意味が飲み込めると血の気がひいた。
「婚約って……ブルーム伯爵令嬢とですか?」
ルーチェは「うん」と頷き、顔をヴェラに向けた。その顔は、屋敷の高い壺を割って隠そうとした時のような悲壮なもので。
「どうしよう……吐きそう」
「なんでそんなことに?」
「ミア嬢があまりにも健気で、純粋で、可愛くて……守りたくなったの。気づいたら、一生傍にいてほしいって言ってたわ」
「それは……憧れの令嬢像そのままですね」
ルーチェの好みは把握済みで、衝動的に婚約につながる言葉を口にしたことも目に浮かぶようだった。ソファーに埋もれるのではと思えるほど沈み込んでいるルーチェに、意を決して話の続きを聞く。
「その話はご当主様にも?」
「ううん……。ひとまず、ミア嬢には女性関係で色々と清算しないといけないことがあるから、それが済んだら正式に申し込むって伝えたの」
「先延ばしじゃないですか……。なぜその時に取り消さなかったんです?」
「だって、号泣されたのよ? ひとまず、婚約を口外しないように納得させるだけで精一杯だったわ」
ルーチェは重そうに体を起こし、優しくぬいぐるみを隣に座らせると上着を脱ぐ。カツラを取り、まとめていた髪をほどけば跡もついていないきれいな銀髪が背中に広がった。その姿は男装の麗人という言葉がよく似合う。ヴェラは慣れた手つきでルーチェの着替えを手伝い、数分後には麗しい令嬢が淹れたてのハーブティーをすすっていた。
「それで、これからどうするおつもりですか?」
「なるべくいい思い出を作って、それから誠心誠意謝って断るわ。このままじゃ、私の方がよっぽどクズだもの」
結婚なんてできるはずがないのに、純粋な少女を期待させてしまっている。遊びだとあっさり切り捨てているライアンよりも質が悪かった。
「それならばすぐにでも、次のお約束をしたほうがいいですね……。それまでに、本物のライアン様に会う危険性もありますし」
「うん……でもそこは、ミア嬢が正式に婚約を申し込まれるまでは、公の場で会っても知らないふりをするって言ってくれたの。ライアンに思いを寄せている令嬢たちが怖いからって」
「それは……なんともご聡明なご令嬢ですね。デビュー前とは思えません」
「そう言われて、ますます取り消すタイミングを失ったのよ……」
ルーチェはハーブの爽やかな香りを吸い込み、気持ちを落ち着かせる。疲れた体に優しい甘さが染み渡った。
(とにかく早く解決しないと……ライアンにも、お父様にも知られないうちに)
カップのハーブティーを飲み干すと、静かにソーサーに戻した。お代わりを尋ねたヴェラに首を振って答えると、茶器が下げられる。
「では、湯あみの準備もできておりますから、今日はもうお休みください」
「ありがと……それと、明日からミア嬢の手紙は私に回して頂戴」
「かしこまりました」
一礼してヴェラが出て行った後、ルーチェは肺一杯の空気を吐き出したのだった。
◇◇◇
一方、アレンが事の顛末をミアに伝えたのは、翌日のことだった。朝食後、自室にミアを招いて「実は……」と順を追って話したのだ。
「え、ということは、ライアン様と婚約することになっているの?」
「ごめんなミア。お兄ちゃんが欲をかいて、あいつを追い詰めようとしたばかりに……」
窓際の丸テーブルを挟んで座る二人と、お茶の給仕をするダリス。場の空気は重たく、アレンは終始伏し目がちだった。
「ううん、私は大丈夫よ。だって、話を聞いていたらライアン様がどれほど女性に対して軽率かが分かるもの」
兄の本物の怒りと謝罪を感じて、ミアは気にしないでと優しい笑みを浮かべた。自分の代わりに女装までして矢面に立ってくれた兄に感謝こそすれ、責めることなどできない。そんな優しい妹に、アレンは今日も通常運転。
(うわぁぁ、俺の妹まじ天使! もう見た目だけじゃなくて性格まで天使とか、絶対にクズ野郎には会わさない)
でれっとアレンは相好を崩し、少しぬるくなったお茶を飲む。浮かべられたレモンが、回復しきっていない体に嬉しい。靴擦れしたところは血が滲み、今もふくらはぎが張っている。
「あんな害虫、ミアには絶対近づけさせないから、安心して」
「それは心強いけど、今後社交界で顔をあわせた時はどうすればいいの?」
ミアが出る予定の社交の場は数えるほどで、どれも家族の誰かが付き添っているが、周りの人が少し離れた時を狙って話しかけられるかもしれないのだ。実際、初めて会った茶会がそうだった。
「大丈夫。向こうは今までの清算があってすぐに婚約を公にはしないって言ってさ、まぁ常套手段だよな。それで、こっちもそれまでは知らないふりするって伝えてある」
あの時、婚約を受けてしまったことに気づいたアレンは血が凍る思いになり、大混乱に陥っていた。とてつもない過ちを犯したことに気づいた子どものように泣きじゃくってしまったのだ。状況から見れば、思いが報われたことへの嬉し泣きととられただろう。
そして、情報と感情が洪水を起こす頭で考えたのは、可愛いミアのこと。何としても、ミアが巻き込まれるのは防ぎたかった。だから、その提案をしたのだ。アレンは大泣きしたことはミアに伏せ、バラ園から帰ったアレンの目が赤く化粧が崩れていたことを知っているダリスには、目で「言うなよ」と制する。
「そういうことだから、ミアはいつも通りでいて。あ、さすがに字でバレるから、手紙のやりとりだけは手伝ってくれる?」
「もちろんよ。お兄ちゃん、本当にありがとう」
「いいって」
アレンが気恥ずかしそうに茶請けのクッキーを口に入れる。空になったカップにお茶を注いだダリスは、アレンに顔を向けて「しかし」と口を開いた。
「これからどうされるおつもりですか?」
妹に会わせるつもりもなく、ミアに扮したアレンでは結婚などできるはずもない。アレンは最初こそ勢いだったものの、一晩よく考えたのだ。そして出した結論が。
「完全に俺に惚れさせて、幸せだって思わせたところで婚約破棄する。まぁ、口約束の婚約だけどさ」
「立派な悪女ですね」
「それで俺が悪女と呼ばれるなら、あいつは悪魔だろ。ああやって今まで女の子を騙してきたんだ。あんな女たらしのクズ、一度痛い目にあえばいいんだよ。だから、協力してくれよ?」
にんまり笑うアレンに、ミアは「まぁ」と口に手を当てて驚く。
「お兄ちゃん、お伽噺に出てくる魔女みたいだわ」
昨夜、自分そっくりに化けた兄を見ているため、ますますそう思えた。ダリスは笑いをかみ殺し、少し震えた手でミアにお茶をついだ。
「悪魔と魔女の騙し合いですか。これは見ものですね」
「絶対、成敗してやるからな!」
意を決したアレンは拳を握る。
アレンは相手を惚れさせ、手ひどくフるために、ルーチェは相手の傷が浅いうちに、優しくフるために、行動を起こしていくのである。