3.天使な妹のために女装することにした
◇◇◇
ブルーム伯爵家の一人息子アレンは、従者から妹のミアが思い悩んでいるようだと聞いて、落ち着かない足取りで様子を見に来た。栗色の髪は短めに切りそろえられており、深緑色の瞳は心配そうな色を添えてドアを見つめている。伝えに来た従者のダリスは後ろに控えており、アレンは一息入れてからノックをした。
「お兄ちゃんだけど、入ってもいい?」
すぐに「いいよ」と、朝に庭で囀る小鳥のような可愛らしい声が返ってきたが、心なしかその声は沈んでいる。それだけで胸が塞がる思いがして、そっとドアを開けて妹の姿を探した。
「お兄ちゃん……それにダリスも」
ミアは窓辺に置かれた椅子に座っており、窓から差し込む陽射しが亜麻色のゆるく波打つ髪を透かしている。フリルがあしらわれた若草色のワンピースドレスがよく似合う。傍の丸テーブルには手紙を書こうとしていたのか、便箋とインク、ペンが置かれていた。
「どうした? 元気がなさそうだけど」
アレンはミアの向かいに座り、安心させるように笑顔を見せる。目が合うとミアは、アレンと同じ深緑色の瞳を揺らし、きゅっとさらに眉を下げた。泣くのを我慢しているような顔に、アレンはすぐにも原因を突き止め解決したくなるが、可愛い妹を怯えさせてしまうので静かに深呼吸をして返事を待つ。ミアは少し迷うそぶりを見せたが、「あのね」と細い声で話し始めた。
「……今日の夜会に行きたくないの」
ミアは、2つ下の16歳。まだ正式に社交会デビューはしておらず、小さな茶会や舞踏会で社交の経験を積み始めたところだった。
「夜会……昨日は楽しみにしてたよね。怖くなった? やっぱり俺も行こうか?」
今までの夜会のエスコート役はアレンがしていたのだが、過保護すぎてミアが社交の経験を積めないと、今日は父親に留守番を命じられていた。しかも両親は公爵家主催の夜会に出席するらしく、ミアは教育係でもあるダリスがエスコートでつくことになっている。
「ううん、そうじゃなくて……」
一度そこで言葉を切ったミアに、アレンは何か思い当たることがあるかと壁際に控えていたダリスに顔を向けるが、彼は黙って首を横に振った。
「……その、会いたくない人がいるの」
「どこの誰? まだ社交界に出て日の浅いミアが嫌がるとか、どういうこと? お兄ちゃんが男として話付けてくるから、名前教えて」
間髪入れず、流れるように相手を問う言葉が出た。真顔で目に軽く殺意がこもっている兄に反して、妹はそこでなぜか顔を赤らめた。視線を手紙に落として、「えっと」と口ごもる。その反応に二人は「ん?」と違和感を覚えた。
「ライアン・オルコット様」
だが違和感の正体を探る前に、告げられた名前に眩暈を覚える。口をぱかっと開けたアレンと、額に手を当てたダリス。
「ばっ……よりにもよって、あの女たらしはダメに決まってんだろ!」
「だって、あまりにも顔が好みだったんだもの」
彼の顔を思い出してうっとりするミアに、アレンは顔を覆って天を仰ぎたくなる。夜会でも茶会でも、いるだけで人々の視線をさらっていく顔のよさ。中性的な顔立ちで、背景に花を持った男が好みなミアからすれば、理想が服を着て歩いているようなのだ。
そう、ミアは面食いだった。
「わかる。わかるけど! でもな、あの美しさは観賞用だから! きれいな花には棘があるどころじゃない。一面焼け野原だよ!」
そして、アレンも面食いだった。二人の好みは完全一致。男でも女でも、中性的で華やかな容姿を持つ人たちについて語りつくした日は数えきれないほどある。
「けど、あの天に召されるようなお声で話しかけられたら、その光輝くお顔が近くに会ったら、少しでも長くこの目に焼き付けようとおしゃべりしたくなるでしょ?」
「そうだな。美しい顔は存在しているだけでいい。だけど、性格は別だ。あいつの顔に罪はないが、社交に慣れていないミアに気やすく声をかけたのは許さん」
可愛い妹と美形に対する全肯定とライアン個人の行動に対する全否定が同居する事態に、傍で聞いていたダリスは頭が痛くなってくる。
「お二人とも、一度落ち着いてください。それで、そこから今日の夜会に行きたくないことにどうつながるんですか?」
そう話を戻されて、ミアは目に見えて落ち込んだ。「その……」と言いづらそうに、何度か視線をアレンとダリスの間で行き来させる。
「この間の茶会でお会いした時に舞い上がっちゃって……その勢いのままお手紙を差し上げてしまったんです。今日の夜会でお時間が欲しいと……思いを伝えようと思って」
(行動が早い……さすが、翼が生えた天使。いや、告白は早すぎるだろ!?)
普段大人しい妹の驚きの行動力に、現実逃避をしてしまった。
「でも、先ほどのお茶会でライアン様のお話を色々と聞いて、もし思いを伝えても私なんて相手にしてもらえないって分かったんです。それで、あの素晴らしいお顔で嫌悪の目を向けられたり、辛いことを言われたりしたら、もう生きていけないと思えて……」
手紙を書こうともしたが一文字も書けなかったのだと、ミアは目を潤ませていた。ミアはアレンを筆頭に、それはそれは大切に育てられてきた。箱入り娘どころではなく、宝箱入り娘だ。そのため傷つきやすく、何かがあるとすぐに涙を浮かべていた。
神妙な顔で話を聞いていたダリスが、うーんと唸って口を開く。
「お相手がオルコット伯爵令息であれば、茶会を休んで悪印象を与えるわけにもいきませんものね」
オルコット伯爵家は代々法の専門職に就いており、この二代は貴族間の争いの仲裁や調整を行う役職だった。何か事件が起こらない限りは関わることはないのだが、有事のために友好な関係を築いておきたいと考える人間は多い。
「ミア……それは辛いな。俺が代わりにいければいいのに。ミアが悲しまなくて済むなら、なんでもしてやりたい」
天使な妹のためなら、この身が犠牲になろうともかまわないとアレンは真剣な眼差しを向けた。その優しさに、ミアは泣きそうな顔からくしゃりと笑顔になり、眦から涙がこぼれる。
「お兄ちゃん、ありがとう。気持ちだけで嬉しいわ……」
辛そうだが覚悟を決めた表情を見ると、さらに胸が痛くなってくるアレンだ。それと同時にライアンへの怒りが燃える。そんな兄弟愛の美しさが二人を包んでいるところに、ダリスが「それはいいかもしれませんね」と呟いた。
「アレン様がミア様になればいいんですよ」
名案ですと指を鳴らしたダリスに対し、アレンは「は?」と口を開ける。ミアもきょとんと目を丸くしていた。
「アレン様はミア様と背格好も近いですし、お顔もか……大変よろしいので、私の技術をもってすれば相手を騙すなどたやすいかと。それに、私もかの御仁にはいくつか思うところもありますので」
協力は惜しみませんと真意がわからない笑みを浮かべるダリスに、兄妹は顔を見合わせる。同じ深緑色の瞳は優しい印象を受ける垂れ目で、ミアの方が少し大きい。アレンは小柄で肩幅も狭く、今から成長すると息巻くが友人には「女顔の童顔チビ」とからかわれるほどだ。
「いや、ダリス。それは無理があるって。声とか、喉とかどうすんのさ」
「裏声を使ってください。お二人は声質も似ていますし、相手が不信がったら喉の調子が悪いで押し通せばいいです。それに首元まであるドレスを着れば問題ありません。ミア様はデビュー前ですし、そもそも露出は控えめですからいけます」
「てか、ダリスってドレス着せられるの?」
アレンは見ているだけで複雑そうなドレスの着方など分からない。そして着付けは侍女の仕事だった。
「ご心配なく。非常時に着付けができるよう、叩き込まれております。それとも、お言葉を撤回されるんですか? 可愛い妹のために何でもすると言っておいて」
笑顔で圧力をかけるダリスに畳みかけられ、アレンは思わず立ち上がり言い放った。
「男に二言はない! ミアのためなら何でもする!」
「では、決まりですね。私がエスコートをしますので、ご安心ください。そうと決まればレディのマナーを身につけてもらいますよ」
さっそく準備をしてきますとダリスが部屋を出て行くと、アレンは力が抜けて椅子に腰を下ろす。状況に頭と心が追い付かない。
「お兄ちゃん……ごめんね」
「ううん、ミアが苦しまなくて済むなら、安いもんだよ」
今は妹の優しい言葉だけが救いであった。そしてここから、詰め物、コルセット、ヒールという地獄に迎えられ、くすぐったい化粧を我慢して目を開けたアレンが見たのは、鏡に映る妹の顔。いや、自分の顔だった。ドレスで首と肩を隠せば、羞恥心で目を潤ませる少女にしか見えない。
「天使がいる……」
「やはり、私の見立てに狂いはありませんでしたね! いいですか、目元は強くこすったり、泣いたりしてはいけませんからね。化けの皮が剥がれます」
「お兄ちゃん、これはもう才能だわ。自信を持って!」
「すごい、すごいけど……認められるか!」
そして、始まった地獄のダンスレッスンに悲鳴を上げるのだった。




