22.女装してからの、最大の危機だ
アレンは走っていた。バクバクと口から飛び出そうなぐらい高鳴っている心臓は、走っているせいではない。壁に押し付けられた時の甘い香り、頬にかかる吐息。焦りが滲んだ青い瞳に艶やかな唇。
(キス、されるかと思った……)
顔は火が出るように熱い。
アレンは、自分を好ましく思っているかと聞いた時、全てを終わらせるつもりでいた。愛されていることを確認して、婚約破棄を口にしようしたのだ。だが、言葉は遮られ建物の影に引っ張られてから、庭園に誰かが来たことが分かった。口を塞がれたのはまだ分かる。あそこで声を上げて、見つかっていたらおしまいだ。目に入れても痛くない天使な妹の名に傷がついてしまうからだ。
(耳塞いで、あいつ……ありえない。あんなこと、他の令嬢にもしてんのか?)
後ろから呼ぶ声が聞こえた気がしたが、アレンは無視して建物の角を曲がった。その先で足を止め、呼吸を整える。
(もう無理だ。直接婚約破棄を叩きつけたかったけど、これ以上一緒にいたら、俺の貞操が危ない! 帰ったら、即刻婚約破棄状を送り付けてやる!)
慣れないヒールで走ったから、遅れて痛みがやってくる。口を塞がれていた細い指の感覚がまだ残っていて気持ちが悪い。あの時は悲鳴を上げて、相手が怯んだから押しのけられたが、本気で抑え込まれたら抜け出せたかは分からない。
ふぅと息を吐いた時、逃げてきた方向から足音が聞こえたので、慌てて走りだした。だが、踏み出した足を捻りバランスを崩す。
「うわぁ!」
素の声が出て、とっさについた手が痛い。膝は長く何枚も重ねたスカートのおかげか、痛みはなかった。
(まずい! 逃げないと!)
今追いつかれたら終わると、立ち上がろうとするのだがヒールが脱げたようで、広がったスカートでどこにあるのかも分からない。まごまごしていると、建物の角から人が飛び出してきた。
「ご令嬢! 大丈夫ですか!?」
その声は聞きなれたもので。
「……え?」
「あれ……ミアちゃん?」
目が合ったのは、オレンジの瞳。騎士団の服に身を包んだ腐れ縁がそこにいた。
(まずいまずいまずい! あいつよりももっとまずい! いや、信じろ。俺の演技力なら、こいつだって騙せるはず!)
アレンは必死に天使の表情を作り、慎重に声を出そうと準備する。だが、その前に座り込んでいるアレンに上から下へと視線を滑らせたフレッドが吹き出す。
「お、おまっ、アレンだろ! ひぃぃ! 何してんだお前!」
腹を抱えて笑い、膝から崩れ落ちたフレッドは、アレンの顔を間近で見てさらに笑い転げる。弁明の余地もなく、一番知られたくない相手にバレたアレンは、顔を両手で覆って小さくなった。
「もう……殺してくれ」
「無理、笑いすぎて、死ぬ……」
「そうか、お前を殺せば」
「無理、やめて」
そして、やっと笑いが収まったフレッドは、アレンから目を背けたまま「事情聴取」と空いている部屋へと移動したのだった。
フレッドに連れられ、アレンが入ったのは控室として使われる一室だった。念のためと内から鍵をかけ、応接用のソファーにテーブルを挟んで座る。アレンは開き直っており、足を開いてその上で頬杖をつく。不機嫌丸出しだ。
フレッドは頬をひくつかせており、鍛え上げられた腹筋に負荷がかっていそうだ。
「……で、なんでそんなことに? さっき一緒にいたのは、オルコット伯爵子息だよな」
アレンは降臨させていた天使にはお帰り頂いて、地声で答える。
「……全部あの女たらしが悪いんだ。あいつの顔がよすぎて、俺の可愛いミアがさ」
「ちょっ、待って……」
嫌々ながら事情を話そうとしたのに、口元を押さえて目を白黒させたフレッドに止められた。戸惑っているような、笑いたいような、どっちつかずの顔をしている。
「その顔で、地声やめろ。足も開くな。顔はミアちゃんなのに、声と態度がお前で、頭が情報の受け取りを拒否する」
アレンは、心の中で「はぁ?」と叫びつつも、無言で笑みを深くする。
(男の姿に戻ったら、鳩尾に一発いれよ)
そして、静かに深呼吸をして天使を呼び出すと、お淑やかな裏声を使って話し出した。
「では、これでよろしいですか?」
「……え、ミアちゃん? あれ、さっきの夢?」
「埒があきませんから、このまま勝手に話しますわね。後で覚えてろですわ」
「あ、アレンだわ」
そして、何が悲しくて友人に対して女装と裏声で話さなければいけないんだと思いながら、アレンはミアに頼まれたところから掻い摘んで説明したのである。それをフレッドは大人しく、口元を押さえ、危ないところは息を止めながら聞いていたが、堪えきれずに吹き出した。
次々襲い掛かる笑いの波状攻撃に、早々腹筋は陥落し、呼吸困難になってむせ返る。「やめて、もう、死ぬ」と何度も繰り返していた。それに対して、生ぬるい視線を送りながら、アレンは攻撃の手を緩めない。笑い殺す気満々だった。
話がついさっきの庭園まで話し終わったころには、ソファーにぐったりと倒れ込んで思い出し笑いに苦しむ瀕死のフレッドがいた。この先三日は思い出し笑いをしそうで、アレンを見る度に吹き出すのを堪えることになりそうだ。
「以上ですわ。ということで、お前の記憶が無くなるまで、ボコボコに殴ってもよろしいかしら?」
「待て、早まるな。事情は、分かったから……ふふっ」
締まりのない口端から笑い声が漏れる。アレンはフリルがついた可愛い袖口から、拳をのぞかせ軽く挙げた。フレッドはすぐに悪い悪いと顔を引き締め、口元に手をやって思案顔になる。手は緩む口元を隠すためだ。
「てことは、さっきのはタイミングが悪かったよな。計画では、今日引導を渡すつもりだったのか」
「そうですわ。その分も、追加で殴りますわね」
「いや~、それは遠慮するとして」
そこで言葉を切ったフレッドは、にやりと口角を上げた。それは、人を散々からかう時や、いたずらを考えた時の顔で。
「俺にも一枚噛ませろよ。あのいけ好かない野郎に一泡吹かせるんだろ? 最高じゃんか」
人の悪い顔の見本のようで、今まで煮え湯を飲まされてきたアレンは引いた。仲間になる時の顔ではない。
「……お断りしたいですが、勝手に何かされても困りますので、しぶしぶ了承いたしますわ」
「そうこなくっちゃ。じゃ、ミアちゃんたちを交えて作戦会議と行こうぜ」
この夜会の直後、社交界では一つの噂が広がった。
ライアン・オルコットに婚約を考えている令嬢がいるらしい。夜会の日、ひっそりと庭園で会っていたらしい、と。




