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21.男装してからの、最大の危機です

 ◆◆◆


「これは、ライアン・オルコット伯爵子息。このようなところにうら若い少女を連れ込み手籠めにしようとは、紳士を御母堂の中に置いてきたと見える」


 凍てつくような冷たい瞳を向けられ、ルーチェはその場に縫い付けられたように固まっていた。喉元に剣を突き立てられているように、冷や汗が止まらない。カミラ近衛騎士からの威圧感に呑まれながらも、ルーチェはなんとかこの場を切り抜けようと頭を回転させる。


(どうする!? ひとまず、ライアンとしてごまかして、この場を去るのが一番よね。後のことはひとまず置いといて)


 固まった頬を動かして笑顔を作ろうとしたが、ぎこちない笑みになった。言葉を返さないルーチェに、カミラの表情はますます剣呑なものになる。その性格は騎士にふさわしい清廉潔白、男に負けない剣の腕前と度胸は高く評価されている。ルーチェはそれを知っているからこそ、下手なことを言えない。向けられている視線が苦しくて、頭を下げる。


「ヘルハンズ近衛騎士、申し訳ありません。お見苦しいものをお見せしました。……先ほどの少女に弁明もしたいので、ここで失礼します」


 先ほど若い騎士が追って行ったから、今ならまだ追いつけるだろう。今日こそは婚約破棄をと決意していただけに、気が急いてしかたがない。さらに、少女が本物のライアンに遭遇したらと考えると、恐ろしかった。


 もう一度挨拶をし、この場を去ろうとしたルーチェだが、カミラに一歩詰められ行く手を遮られる。


「王宮で不貞を働こうとした者を逃すと思ったのか? あの令嬢は今頃先ほどの騎士が事情を聞いているだろう。ここは『愛の国』だが、貴殿のふるまいは目に余る。女性の心を弄び、応えないのは不誠実の極みだ」


 迫るカミラの背は高く、仕込み靴を履いたルーチェと同じくらいだ。しなやかな筋肉がついており、力づくの突破は無謀であると分かる。鋭い叱責に反論の余地はない。9割はライアンが悪いが、先程少女を驚かせてしまったのは、ルーチェの落ち度だ。


(なんで、こんなにも上手くいかないのかしら……)


 いつも、肝心な時に邪魔が入ったり、予定が狂ったりする。どうにかして、この場から逃げたいが、乾いた舌は全く動かない。頭の中は今後の不安、不運な自分への嘆き、ライアンへの憤りが押し寄せている。こういう場合でも、ライアンなら微笑みながらうまくすり抜けるのだろうと思うと、虚しさが募った。


 ルーチェが下唇を噛む。顔は怖くて上げられない。緊張と不安で吐きそうだ。身を固くしていると、ふぅと息を吐く音が聞こえた。



「貴女も、そう思うだろう? ルーチェ・オルコット伯爵令嬢」



 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「……え?」


 突然告げられたルーチェ《自分》の名前に、思わず顔を上げたルーチェの目に飛び込んだのは、優しい微笑み。呆けた顔で、食い入るようにカミラを見つめていたルーチェは、言葉の意味を飲み込むと、ゆっくりと問いかけた。


「なんで……わかったんですか」


 もう、嘘をつく気もごまかす気も消えていた。心の底で終わりにしたいと思っていたから、見破られたことの恐怖よりも、安堵が勝ったのだ。


「そっくりだが、ライアン殿は私のことを侯爵令嬢と呼ぶんだよ。それに、貴女の手は剣術を修めたものだからな」

「そう……ですか」


 乾いた笑い声が出る。脱力感に襲われ、膝が砕けそうになった。


「貴女がライアン殿のふりをしているのは、何か事情があるのだろう。これも何かの縁だ。酒の肴に、話してくれないか? そうすれば、今日のことは見逃そう」


 そしてカミラはルーチェの返事も聞かず、肩を抱いて歩き出す。体に力が入らないルーチェは抵抗もできず、押されるままに歩くしかない。


「ちょうど、この後の夜会に出される予定のいいワインを味見しなくてはいけなくてな。付き合ってほしい」


 連れられて行く先は、先程の庭園の裏側にある騎士団の訓練所だ。ルーチェは、カミラは酒豪としても有名だったことを思い出し、別の意味で死ぬかもしれないと戦々恐々とするのである。




 人のいない訓練所は、武器を手入れする油と革の匂いがしていた。剣や槍が壁にかけられ、絢爛豪華な広間とは正反対の武骨な部屋だが、ルーチェには落ち着く場所だ。カミラは茶の用意はできないと軽く詫び、二つのグラスにワインを注いだ。カミラは本気でルーチェの話を肴にワインを飲むようで、耳を傾け相づちを打ちながらおいしそうに飲んでいく。時に憤り、時に快活に笑い飛ばす彼女は、ルーチェの周りにいる令嬢のように仮面を被ってはいなかった。


 そして、ブルーム伯爵令嬢との経緯を全て話し終えたころには、一本が空いていた。顔色が全く変わらないのだから、底なしなのだろう。ルーチェが飲んだのはグラス一杯だけだが、ほどよく緊張をほぐしてくれている。空になったグラスを置いたカミラは、切れ長の目をルーチェに向けた。見透かされるような気がして、ルーチェの背筋が伸びる。


「つまり、ライアン殿の代わりにブルーム伯爵令嬢との婚約を白紙にするのが、貴女の望みなのか?」

「はい……。本当はもっと早く、解決したかったんですけど……」


 カミラの瞳は何かを確かめるようで、ルーチェは何か意に添わないことを言っただろうかと不安になる。


「……そうか。ならば、何かあれば私も力になるゆえ、気兼ねなく言ってくれ」

「いえ! そんな……そのお気持ちだけでうれしいです」


 恐縮して社交辞令と受け取ったルーチェに対し、カミラは手を伸ばしルーチェの手を取った。手の形を確かめるように優しく指を添わされ、ルーチェは固まる。


「私は本気だぞ? 剣に励むものは好きだからな。それに、ルーチェ殿の師は前副団長だろう? 私もあの方に剣術を教わったから、そのよしみだ」

「え、あの方、前副団長だったんですか?」


 ルーチェは先生が騎士団の人だとは聞いていたが、その役職までは知らなかった。恐ろしく強く、威厳がある人だとは思っていたが……。目を丸くするルーチェを見たカミラは、その手を放すと苦い顔になった。


「おっと……これは失言。麗しいご令嬢に騎士団の話をするのは無粋だった」


 ヘルハンズ侯爵家のような騎士団員を多く輩出している家では、軍や騎士に関する話は女性の間でも話題に上がるが、一般的な蝶よ花よと育てられた令嬢には縁遠い。ルーチェも母から護身を兼ねた剣術を習うのは許されたが、それを話題にすると険しい顔をされたのを覚えている。


「いえ……。そういえば、カミラ様はどうしてあそこに?」


 失敗したなと気まずそうな顔をしたカミラを気遣い、ルーチェは話題を変える。すると、ますます居たたまれない顔をされた。カミラはテーブルに乗っていたもう一本のワインを開け、「それは……」と重い口調で話し出す。


「私は今年で24だ。今まで騎士の道に生きてきたから、結婚など頭をかすめたこともなかったのだが……」


 語り口から察したルーチェは、近衛騎士として身を立てている彼女でさえも、令嬢としての責務からは逃れられないのかと、気が重くなる。


「両親は諦めているからいいのだが、王妃殿下がなぁ……。私の子を腕に抱くのが夢なのだと仰って、最近王妃殿下の下に挨拶に来る未婚の男性を片っ端から紹介されるから、逃げてきた!」


 カミラはハハハと笑い飛ばす。


「王妃殿下が、ですか」


 予想した理由と少し違い、ルーチェは目を瞬かせた。ルーチェは、王妃殿下にお目通りすることは年に数えるほどしかなく、言葉を交わすこともまずない。だが、令嬢たちの噂で王妃殿下がカミラ近衛騎士を娘のように可愛がっている話は聞いたことがある。

 カミラは気恥ずかしそうに、グラスのワインを呷った。


「そう。それが嫌で、この夜会では身辺警護から見回りにしてもらったんだ。自分で気になる相手を見つけるという名目でな。だから、ここで潜んでいたことは内密に」


 口元に人差し指を当てたカミラは、孤高の薔薇騎士という呼び名からは考えられないくらい人間味があって、親しみを覚えた。ルーチェは目元を和ませ、「はい」と頷く。


「さて、そろそろ戻らなければ。私は先に出る」


 カミラはグラスに残ったワインを飲み干すと、立ち上がった。二本あったワインはすでに空だ。


「カミラ様、今日は本当にありがとうございました」


 ルーチェも立ち上がり、昔教わった騎士の礼を取った。それを見たカミラは笑みを深くする。


「ルーチェ嬢、心のままに生きるといい」


 そう言い残すと、軽く手を振って詰め所から出て行った。一人残ったルーチェは、最後にかけられた言葉を小さく呟く。


「……心のままに生きる」


 それは、建国史の劇中でも、王のスピーチの中にもあった、この国の信条と言える言葉だ。ルーチェはまるで小さな灯のような温かさを感じながら、少しお酒が入っている気持ちよさを引きつれて部屋を後にした。


誤字報告ありがとうございます!

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