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20.男装して、婚約を破棄します

◆◆◆ 


 ルーチェは社交界にいい思い出がないが、兄と一緒だとさらに地獄だった。前髪をなるべく顔にかけ、俯いて歩く。誰とも目を合わせたくなかった。誰もが仮面をつけ、その裏に醜い感情を隠しているように見えるからだ。全ての視線と賛辞は隣の兄へ向けられ、ルーチェは息を潜ませる。


 兄妹の間で会話は無く、形だけのダンスを踊ればルーチェは逃げるように広間を後にした。一週間の謹慎が明けたライアンは久しぶりの夜会だと、離れて行ったルーチェを気に掛けることもなく、好きに令嬢たちに声をかけダンスに誘っている。


(気持ちを、切り替えなくちゃ……。これから、ミア嬢と会うんだから)


 社交の場特有の、令嬢たちの香水が混ざりあった匂いと、男女の腹を探り合うおしゃべりが、今までルーチェに向けられてきた悪意を思い起こさせて、気が滅入る。心許せる友達も、心惹かれる殿方もいないルーチェには、一刻も早く立ち去りたい場所だった。そのため、ルーチェは常に両親に頼んで控室を用意してもらっており、最初のダンスが終われば最後までそこで時間を潰していたのだ。


 そこでは、ヴェラがライアンに扮するための一式を用意して待っており、ライアンと全く同じ夜会服を着て、スカーフをしめた。ヒールから仕込みのある靴に履き替えれば、ライアンと同じ高さになる。袖に嵌るカフスまで寸分違わないものだ。


(今日で、ミア嬢ともお別れ……ね)


 物悲しい気持ちになるが、これ以上傷口が広がらないうちに終わらせるべきなのだ。ルーチェは鏡に映るライアンと同じ顔を見て、強く決意する。ライアンはしばらく令嬢たちと踊るため、広間にいることは予想がつく。そこで、ルーチェは手紙で落ち合う場所を裏庭に指定していた。


「じゃ、行ってくるわ。もしライアンがここに来たら、私は気分が悪くなったから外に出ていると言って」

「かしこまりました。お気をつけて」


 深く腰を折って礼をするヴェラは心配そうな表情を浮かべており、ルーチェは「大丈夫よ」と微笑んだ。



 ルーチェが裏庭の存在を知っていたのは、剣の先生が教えてくれたからだった。騎士団の訓練所が近くにあり、騎士団員だった先生はよくそこでサボっていたらしい。そして、もし王宮の茶会や夜会が嫌になったら、そこで休めばいいと口元で人差し指を立てて、いたずらっぽく笑ったのだ。


 それから、ルーチェはこの場所を何度か避難場所として使わせてもらっている。ベンチに座って、考えてきた言葉を頭で反芻していたら、ほどなくして足音が聞こえ外廊下から近づいてくる少女が見えた。薄緑色の可愛らしいドレスが夕日の温かな光を受けて、色を変える。


「ミア嬢、こんなところに呼び出してごめんね」


 ルーチェは立ち上がり、少女の手を取ってエスコートをする。


「いえ、王宮にこんな可愛らしい庭園があったなんて、知りませんでしたわ」


 そう言われると少しくすぐったい。いつもは一人でひっそりと逃げ隠れていた場所が、彼女がいるだけで素敵な逢引き場所になる。


「せっかくだから、少し歩こうか」


 中庭ほどの広さはないが、歩くのには十分であり、色とりどりの花や彫像が目を楽しませてくれるのだ。少し足元は悪いが、難なく歩く少女からは最初に会った薔薇が咲き誇る庭園と比べて、社交界に慣れた様子がうかがえた。大輪の花を咲かせる間近であり、なおさら今この手を放さなければと思う。


「ライアン様とこうやって一緒にいられるのは、本当に夢のようですわ。ご令嬢方に囲まれているライアン様を見ていると、私とは違う世界にいる人のように思えますもの」

「そんなことはないよ。今はみんながミア嬢の魅力に気づいていないだけ。君は本当に、心優しい素敵な女性だ。僕は、そんな君に救われたから……感謝している」


 最後の最後まで、ルーチェに少女を冷たく突き放すことはできなかった。罪悪感に後押しされるように、心の声をそのまま口にする。それを聞いた少女は目をパチクリとさせると、くすくすと口元に手を当てて笑う。


「感謝だなんて、大袈裟ですわ。私は何もしておりませんのに」

「そのままが一番ってことだよ」


 ふわりと慈しむように笑えば、彼女は頬を染めて視線を逸らす。そして、「そうですわ」と思い出したかのように話題を変えた。


「ライアン様、先程一緒に踊っていらしたのは、妹様ですの? 遠目でしたけど、素敵なお方に見えましたわ」


 まさか自分のことを話題にされるとは思わず、どういうことだろうとその表情を読むが、純粋に興味で聞いているようだった。ルーチェ(自分)に関心を向けられていることは慣れず、不思議な気分になる。


「……妹だよ。社交の場は苦手でね、今は控室で休んでる」

「それは、心配ですわね」


 その言葉が胸に突き刺さった。あの兄がルーチェを心配などしているはずもなく、それゆえに他人を心の底から心配しているように見える少女の優しさだけが際立つ。


「……そう、だね」


 その肯定はただただ虚しく、ルーチェの胸を締め付けた。温かな風が吹き、木の葉が揺れる音がする。ルーチェは終わりにしようと、足を止めた。こちらを見上げる少女の髪は風に遊ばれている。


「ミア嬢、話があるんだ」


 声が固かったからか、彼女の眉がピクリと動き、身構えた気がした。まっすぐ丸い深緑色の目で射抜かれ、一瞬言葉に詰まる。そして、別れの言葉を告げようとしたところに、言葉が被さる。


「ライアン様」


 真剣な瞳。


「私のことを、好ましく思ってくださっていますか?」


 見透かされたような言葉に、心臓が跳ねた。手先が冷たくなっていく。同時に、婚約破棄をするならここしかないと覚悟を決めた。緊張で口の中が渇く。ここで別れを告げればそれで終わるのに、「ただの遊びだ」という一言が形にならなかった。


「……とても、大切だよ」


 代わりに出たのは、よい友達になりたかったルーチェの言葉。そこから「だけど」と話を切り出そうとした時、目の前の表情に引き込まれた。ぱあぁっと花が開いたような笑顔は、心の底から喜んでいるようだ。名残惜しさが胸をかき乱す。声がかすれ、心臓は早鐘を打ち、言葉が出ない。


(早く、言わないと。結婚はできないって。婚約を破棄するって)


 ライアンの皮を被って、人を見下した黒い笑顔を作れば済むのに、顔が動かない。


「ライアン様に愛されて、私は本当に幸せですわ」


 弾んだ声はこれからの幸せを疑っていないような明るさで、ルーチェの心に影を落とす。


「それで、婚約のことなんですけど」

「待って、ミアっ……」


 その先を言わせてはいけないと口を開くと同時に、遠くの外廊下を歩く人影が目に入った。銀髪の背の高い男と女性だ。


(ライアン!?)


 姿を見られるわけにはいかないと、少女の手を取って庭園の奥、建物の影に駆け込む。


「ライアンさっ……」

「しっ!」


 少女を壁に押し付け口を塞ぐ。ルーチェは気配を押し殺して、耳を澄ました。ここは庭園からは死角になっているが、声は届く。


「とてもよいお庭ね。この王宮にこんな秘密の場所があったなんて。知らなかったわ」


 少女も誰か人が来たことが分かったのだろう。身を固くしている。声は女性のもので、先程金髪の姿だけがちらりと見えた。


(ライアンの声を聞かせちゃだめだわ!)


 少女は二人に背を向けていたから、姿は見ていないが声を聞かれたらバレてしまう。ルーチェはとっさに口に当てていた手を放し、彼女の耳を両手で塞いだ。突然のことに目を丸くして、身じろぐ少女に顔を近づけ、「大人しくして」と早口で告げる。吐息が触れる距離。庭園の方に視線を向け気配を探ると、二人は楽し気に会話をしながら、散歩をしているようだ。


 邪魔が入ったと歯噛みするルーチェが視線を前に戻すと、顔を真っ赤にして目を潤ませる少女がいた。別れ話ができるような雰囲気ではなく、どうしようかと思ったその時、耳を甲高い悲鳴が突き抜け、頬に鋭い痛みが走り視界が白んだ。


「最低!」


 その高音と痛みが、腕の中の少女から発せられたと気づいた時には、胸を強い力で押されルーチェは尻餅をついた。か弱く見える少女に押しのけられるとは思わず、悲鳴の衝撃もあって思考が停止する。


「……ミア嬢!」


 声が出せた時にはその姿は遠く、同時に駆け寄ってくる足音が聞こえた。本能的に逃げようと立ち上がったところに、背後で砂を踏む音がする。


「ガードナー騎士は令嬢の保護!」

「はっ!」


 鋭い声で命令が飛び、ルーチェの隣を黒髪の騎士が駆け抜けていった。恐々と振り返ったルーチェの後ろに立っていたのは、赤髪の長髪を後ろで一つくくりにし、紫の刃のような眼光を向けている女騎士。カミラ・ヘルハンズ近衛騎士だった。


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[一言] どっかの通りすがりさんがドッペルゲンガーの恐怖におののいてたりして
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