2.クズ兄の代わりに男装することになりました
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社交シーズンを迎えれば、ルーチェはオルコット伯爵家の令嬢として、母親とあちらの茶会、こちらの夜会と忙しい日々を過ごしていた。今も母親にお供した侯爵家の茶会から帰ってきたところで、重苦しいドレスから気軽なワンピースドレスに着替え、ソファーにポスンと座る。ソファーの隅に置いてあるルーチェのお気に入りのぬいぐるみが、軽く跳ねた。
(あー、疲れた)
愛想笑いで凝り固まった頬を両手でほぐし、ゆっくり息を吐く。少し休もうと目を瞑った時、ノックもなしにドアが開かれた。その開け方をするのは一人しかおらず、憂鬱になったルーチェは視線をドアへと向ける。
「ねえ、ルーチェ。お願いがあるんだけど」
男性にしては少し高い声がし、入ってきた顔は鏡を見ているよう。銀色の髪は柔らかい絹糸のようで、歩けば艶やかに揺れる。少し顔にかかる横髪に澄んだ青の瞳がよく映えていた。双子の兄、ライアンである。
座れば絵描きが喜んで筆を取り、歩けば花が舞い、口を開けば鳥も鳴くのをやめて聞き惚れると評された。18という若さに加えて婚約者がいないとなれば、社交界では引く手数多。よく言えば女性関係が華やかで、悪く言えば遊び人。そしてルーチェに言わせれば女たらしのクズだった。そんな兄のお願いが、ろくなことであった試しがない。
「嫌よ」
双子の妹であるルーチェも、腰にまっすぐ流れる髪は銀色で瞳は青く、声音も似ているためライアンをそのまま女にしたと言われてきた。だが、兄と比べると控えめで大人しい印象である。
「実はね、僕はこれから麗しいご令嬢とデートの約束があるんだ」
なんの断りもなく、ライアンはルーチェの隣に座る。ソファーの背に腕を置き、体をルーチェに向けた。
「ちょっと、聞いてた? 私、断ったよね?」
「だけど、お手紙で可憐な少女の熱烈なご指名も受けていてね。それが今日の夜会ってわけ」
ルーチェの言葉を無視し、何が言いたいか分かるでしょ? と、人の悪い笑みで圧力をかけてくるライアンにルーチェは憤りを隠せない。いつもフラフラと恋人を作らず、女の子と遊んでばかりなのだ。
「なんで、毎度女の子たちは、こんな遊び人に引っ掛かるのかしら。誰のものにもならないのに……」
思わず呟けば、軽く笑ったライアンが「それはね」と愉快そうに言葉を続けた。それを見てルーチェはいらないことを言ったと後悔するが、すでに遅い。
「簡単な話だよ。今まで誰のものにもなっていないから、私こそはって女の子は思うんだ。もしかしたら誰にも落とせなかった僕が手に入るかもって、優越感を持つわけ。僕が誰かのものになるなんて、あるわけないのにね~」
晴れやかな笑顔で言ってのけるのがさらに腹立つ。
「それでね、手紙の子の方なんだけど、正式にデビューする前の純粋な子だったみたいで、本気っぽいんだよ。僕、そういうの面倒だから、ルーチェお願い」
「……また?」
ルーチェは女性にしては背が高く、靴で身長を誤魔化してカツラを被り、体を補整すれば、両親でさえライアンと見分けがつかなくなる。ライアンの声はもともと高めのため、ルーチェは難なく合わせられた。そのため、度々身代わりにされていたのだ。
「それに、拗らせてとばっちりがルーに行くと、僕も辛いもの。女の子たちには、遊びだってわかった上で僕と楽しんでほしいのにさ」
ルーと、ライアンは甘える時にそう呼ぶ。辛いと言いながら、微塵も思っていないのは明らかだった。ルーチェの眉間に皺が寄り、薄暗い嫌な感情が胸の奥に渦巻く。今まで向けられてきた、嫉妬、非難、憐み、悲観、その視線が、言葉が勢いよく頭を駆け巡って気持ちが悪くなった。体が強張る。
「……手紙で、断ればいいじゃない」
「それができる相手ならルーに頼まないよ。相手が、ブルーム伯爵家なんだ。あそこと何かあったら、父さんたち困るでしょ?」
「ブルームって……なんてとこのご令嬢に手を出してるの」
「まだ何もしてませーん」
イラっと来て、眉間の皺がさらに深くなったのを慌てて揉んでほぐした。皺がつくといけない。ブルーム伯爵家は財務の長であり、商会も持っているため人脈が広く深い。あの家に睨まれると、社交界で肩身が狭くなるどころの話ではないのだ。
(面倒だわ……でも、ここで問題が起きてお父様たちが困るのも、あとで私に皺寄せがくるのも嫌)
結局いつもこうだ。ライアンの頼みごとに、断る余地なんてない。ライアンは、ルーチェが視線を落とし黙ったのを見て、満足そうに口角を上げ、サイドテーブルに置かれたベルに手を伸ばし鳴らした。すぐに侍女のヴェラが入ってきたが、二人がそろっている状況とルーチェの顔色から事態を察した彼女は、非難する目をライアンに向ける。茶色の髪をきっちり結い上げ、薄緑の瞳をしたヴェラはルーチェの専属侍女だ。
「ヴェラ、いつものようによろしく。それとこれ、その子からの恋文だから読んどいて。彼女は亜麻色の髪をした、そこのうさぎみたいな子だから気に入ると思うよ。」
ライアンは、懐から一通の可愛らしい手紙をサイドテーブルに投げおくと、「じゃあね」と軽く手を振って出て行った。ライアンが立った揺れでぬいぐるみが倒れており、ルーチェはむっとした顔でぬいぐるみを置きなおした。クリーム色のドレスを着た茶色いうさぎのぬいぐるみは、両腕で抱えられるくらいの大きさでルーチェのお気に入りだ。
「またライアン様のわがままをお聞きになったんですか? 断ればよろしいのに」
ライアンがいなくなれば、ヴェラは嫌悪感を隠そうともせず怒りを声音に乗せる。ルーチェは暗い表情のまま、小さな声で「だって」と答えた。
「これ以上お父様たちが、ライアンのことで頭を悩ましてほしくないんだもの。私が我慢すれば丸く収まるのだから、簡単なことよ」
だから心配しないでと笑みを浮かべれば、ヴェラはますます険しい顔になる。
「そうやって、自分だけ我慢して抱え込むのは昔からの悪い癖ですよ」
「うん、わかっているわ。……だけど今日はお願い」
「……わかりました」
ヴェラはひとまず言いたいことを飲み込み、一礼して男装の準備をしに行った。ルーチェは役作りのために、置いていかれた令嬢からの手紙を手に取る。上質な紙で模様も凝っており、封筒、便せん、インクに至るまで選び抜かれたものということが分かる。
内容に目を通せば、茶会で緊張している自分に声をかけてくれて嬉しかったこと、その姿と気遣いに心惹かれていること、今晩の夜会に参加するので会って話がしたいということが書かれていた。十中八九告白だろう。言葉の選び方と所々跳ねた字から嬉しく期待した気持ちが読み取れる。
(ブルーム伯爵令嬢は、純粋で可愛らしい子なのね)
手紙から令嬢の人柄がにじみ出ており、この子の気持ちを弄ぶライアンへの苦い気持ちが胸に広がる。
(こんな子をクズの毒牙にかけてたまるものですか。私がなるべく傷を浅く、いい思い出になるように断りを入れなくちゃ)
そして、部屋に置いてあった貴族名鑑でブルーム伯爵家を下調べし、ヴェラの手を借りて男装すれば、ライアンのできあがり。ルーチェは人目につかないように、用意された馬車に乗り込み、夜会の会場へと向かうのだった。
ストックが続くまで、毎日投稿していきます。