15.男装の原因は、危険も引き寄せます
劇場内の客もまばらとなったところで、ルーチェは劇の余韻に浸っている少女をエスコートして席を後にした。出会った頃はぎこちなさそうに歩いていた少女だったが、今は自然と身をゆだね顔を上げておしゃべりをしてくれている。
(これからも、こうやって一緒に観劇に行けたらいいのに)
幸せな恋愛劇を見た後に別れ話をするほど、ルーチェは無粋ではない。今日は純粋に観劇を楽しもうと思っていたのだが、一緒にいるとどんどん欲が出てしまう。
(だめね……。会うのは、次で最後にしないと)
名残惜しさを感じつつ明るい豪華な廊下を進めば、貴族用のエントランスがある。大きなドアの向こうに馬車が付けられるようになっており、屋根もあるので雨でも濡れない。係の人に名を告げ馬車を回してもらう間、談笑できる場所になっていた。
少し時間を置いたおかげで、人はいない。だが、気を抜いたところに、後ろから声が飛んできた。
「ライアン様! やっと会えましたわ! 私を置いてどこに行かれたのかと!」
「え?」
心臓が跳ねた。驚いて振り返ると同時に、「後ろは見ないように」と少女の耳元に顔を近づけて囁く。劇場だからライアンの知り合いに会う可能性は予想していたが、違和感のある令嬢の気配に警戒心を強めた。上気した頬に熱のこもった目。派手な赤紫のドレスが視界に毒だ。
ルーチェの心臓は早鐘を打ち、混乱する頭で必死に考える。
(どういうこと!? まさか、ライアンもここにいるの? いや、それなら私に身代わりを頼んだりしないわよね……)
令嬢は「心配しましたのよ」とニコニコと笑いながら近づいてくる。ルーチェは頼みごとをしてきたライアンの様子と、最近のライアンの女性関係を頭の中で並べ立てた。思い当たった可能性に、血の気が引く。
(まさか、お母様なら大丈夫って……)
上手に女の子の間を渡り歩くライアンだが、ごく稀に危険人物を引き当てることがある。それが、今目の前にいるような、思い込みが激しくつきまとってくる子だ。これまでも何度かライアンはそういう女の子と刃傷沙汰一歩手前の騒ぎを起こしていた。
「今日は二人で観劇する約束でしたのに、ひどいですわ。ねぇ、ライアン様、いつ式を挙げましょうか。花嫁衣裳はどうします? 花嫁修業も始めているんですよ」
感じるのは狂気。ルーチェは令嬢に背を向けている少女を抱き寄せ、相手に顔が分からないようにした。腕に抱く体は強張っており、怯えているのが伝わる。空気が張り詰めた。
「悪いが、今日はこの子がいるんだ。話は後で聞くから屋敷に来てくれないか」
ライアンはこうなると予想していたのだろう。だから、ルーチェに身代わりを頼んだのだ。ルーチェはライアンよりも腕が立ち、伯爵夫人の母親がいれば問題の令嬢も下手なことはしないだろうと。
固い声音で突き放す言い方をしたのに、令嬢は意味が分からないのか、不思議そうな顔で首を傾げる。
「ライアン様、その子、妹様ではないですね。誰ですか? 浮気ですか? 私がいるのに、遊んでいるんですか? あぁ、小娘が私のライアン様に色目を使ったのですね。騙されてはいけません。その娘は卑しい汚れた女ですわ。ライアン様の見かけだけが好きな、浅はかな女ですのよ」
極力刺激しないように聞き流すつもりだったが、聞き捨てならない言葉に一瞬頭が真っ白になった。言い返したいのか身じろぎをした少女を、ルーチェは頭を胸に押し付けて抑え込み、令嬢を睨みつける。頭に血が上り、ライアンとルーチェの境が無くなる。
「この子は貴女とは違う、私の大切な人だ。これ以上の侮辱は許さない。即刻、私の前から消え失せろ!」
「ライアン様!? どうされたのです! その女が何かしたのですね。可哀想に! 私が目を覚まさせてあげますわ! 私と行きましょう?」
全くかみ合わない会話。ルーチェが声を荒げたことで、騒ぎに気付いた劇場の係が駆け寄ってくる。ちょうど馬車も入口についたようで、ルーチェは係員と御者に目で合図すると少女の背を押して先に馬車へと向かわせた。
「ちょっと! 貴方達、何をするのよ! 放して! あの女ね! あの女のせいでライアン様は変わってしまったのよ! 殺してやる。あいつを殺せばライアン様は永遠に私のものよ!」
金切声が耳を突き、不快さに身の毛がよだつ。この令嬢がナイフでも持っていたら、可憐でか弱い少女を危険にさらしたかもしれず、腹の底が冷えてくる。
「ライアン様! 助けてください! この人たちが、私とライアン様の仲を嫉妬して、邪魔してくるんです!」
ルーチェは係員に取り押さえられている令嬢を、凍り付いた無表情で見下ろす。
「貴女の家には、オルコット伯爵家から正式に抗議文を送らせていただく。貴女はしばらく静かなところで療養されるがいい。もしこれ以上私の家族や、大切な人を危険な目に合わせたら、法の秩序の下に貴女を裁く」
淡々と剣で刺すように言葉を突きつければ、令嬢はみるみるうちに顔を真っ赤にさせ、唇をわななかせた。
「ライアン様の妻は私なのに、なぜこんなことをされないといけないんですか! あぁ、貴方はライアン様じゃないんですね! 誰ですか! 私のライアン様を返して! 私を愛してくれるライアン様を返してよぉぉぉ!」
「そんなものは、最初からいない」
ルーチェは吐き捨て、これ以上視界に入れたくもないと、踵を返して馬車に乗り込む。扉を閉めても不愉快な絶叫が聞こえていた。すぐに向かいに座る少女の顔を伺えば、薄暗い車内でその白さがさらに浮きだっている。膝の上で拳を握っていて、怖かっただろうと手を重ねた。ついと上げられた視線が合う。
「本当に申し訳ない。恐ろしい思いをさせた。本当はこのままご両親の前で状況を説明し、正式に謝罪も行うべきなのだけど、今はできないことを許してほしい」
自分で言っておいて、情けなさと不誠実さに腹が立った。馬車が走り出せば日の光が差し込み、少女の亜麻色の髪を透かす。固い表情から、怯えさせたことが読み取れ、奥歯を噛みしめた。
「気にしないでください。私はライアン様が守ってくださったから大丈夫です。それより、ライアン様の身も危ないかもしれませんから、お力になれることがあったら言ってくださいね」
微笑んで気遣いをみせる少女はまさしく天使で、いい子過ぎるとルーチェの罪悪感をさらに重くする。だからこそ、もう終わらせなければと強く思った。




