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第95話 この手を離さない【挿絵】

 ワナワナと震える少女に気付かず、紅紫(マゼンタ)の瞳は影を滲ませて、「そう。そのとおり……」とよく磨かれた床に落ちた。


「きみには、ぼくたちイリオス千年のすべての希望が宿っています。この世でもっとも尊く、かけがえのない存在。当然その隣には潔白で、隅々まで日に照らされたとしても恥じるところのない者だけがふさわしい。きみが、そうであるように」


 小さく息を継ぐ音がした。


「ぼくは親友たちを、守るべき民を、丸呑みにしました。4000と421人の同族を、……生きたまま」


 震えてはいなかった。


 その横顔は穏やかにすら見えた。


 過去に磔にされて動けないまま、目も逸らせずにずっと見つめ続けてきた両眼は、この夜も地獄を眺めていた。


「十八年もかけて、消化をしました。吐き気を催すほどに浅ましく、意地汚く。胃の腑で彼らの身体を溶かし糧として、この血肉に変えた。……ぼくのこの、身体は。地上どころか、たとえ奈落の底まで探したとしても二つとないであろう、おぞましきもの」


 少年は、二十年前に白砂を掴んだ左手を固く握りしめ、かすかに笑った。


「こんなもの……もっとも王に近い夜の帷どころか、敵もろとも灰となるのが、当然の定めです」


「……」


 アリアはただ、腱の浮かんだこぶしをじっと見つめていた。


 そんなことないと言葉で否定したところで、鼻に抜ける友の味を、喉を滑り落ちる感触を、重くなっていく腹を知る彼に、どれほど空虚に響くだろうか。


 だが、理解できるかと見過ごせるかは、別の問題である。


(……やっぱり、一つしかないわね)


 その身体をまきとして、ユスティフを燃やし尽くそうとしている一人ぼっちの優しい少年を、このまま一人で行かせてなるものか。


「ニュクス・ピュティア」


 少年は、傲然とおのれを呼び捨てにする声に、息を止めた。


「……!」


 見つめる先にあるのは、ランタンの灯りよりもはるかに強い、一対の黄金。


「わたしに教えなさい。皇帝に勝つすべを、イリオンを取り戻す方法を。この身体に流れる血の所業の尻拭いは、この手でやるわ」


 気高い眼差しを浴びて、オルフェンの習性で思わず膝をつきそうになるところを、ニュクスはぐっと唇を噛んでこらえた。


 動かざる理性の祝福持ちでなければ跪いていた。


「ッきみは! ただ王家の血を継いで生まれただけです! それだけで何もかも背負おうとするのは愚かだと、何度言えばわかってくれるんですか……!」


「先輩だって貴族に生まれただけよ」


 アリアのほうも、一歩も退く気はない。


「たったそれだけで、何を呑み込んで生きてこなきゃいけなかった? 今だって人の幸せばっかり願って、自分のことはまるで考えてない。言われなくたってわかるわ。たった一人きりで、この国と刺し違えようとしてるってこと。……わたしだけ、安全な場所に逃がして」


「……っ」


 目論見(もくろみ)を正確に言い当てられて言葉を失った少年に、熱さえ感じさせる黄金はさらに畳みかける。


「いったい誰が、そんな道を選ばせたの? 誰があなたから、自分の幸せを求めることを忘れさせたのかしら? ――わたしの父親よ。それに、お母さんとおじいちゃん。二十年前の君主たちが、あなたから他の道を奪ったの。自分の幸せを探すことを、自分の人生を生きることを、忘れさせたのよ」


「お、親の尻拭いなんて了見で、進んでいける道ではありません……!」


 黄金の揺るがなさに、なぜか鼻の奥に熱がり上りながらも、ニュクスは必死で言いつのった。


「見たでしょう、敵の悪辣さを! 手段を選ばぬ卑劣さを!」


 だから、何もかもを映し出したのだ。


 幼い少女に見せるにはあまりに惨い死も、何度立ち上がろうと砕かれていく希望も、叶うなら冥府に行くまで隠し通したかった自分の罪も、何もかも。


 この誇り高い黄金を、叩き折るために。


「どれほどの血が流れようと、自国の民を人質にしようと、何も躊躇(ためら)わなかった! 聡明な殿下も真実を見抜く祝福を持つ兄上も、騙し通した! あの時よりさらに状況が悪化していることを、理解できませんか……!? やつは二十年間ユスティフの頂点に君臨し続け、強大な権力の全てを掌握し、一方できみはただの、小さな女の子に過ぎない! 対峙したら最後、いいように嬲り殺されるだけです!」


「やってみなくちゃわからないわ」


「アリア……!」


 ニュクスの声は、ほとんど悲鳴に近かった。


「どうか、どうか諦めてください……! 折れてください! 皇帝は正真正銘、怪物です! 怪物を相手にするのであれば、自分もまた怪物になるしかない……! きみがその手を汚し、最後はやつと共に奈落に落ちるのを、むざむざ見ていろと言うのですか? この、ぼくに! ――ぼくは……っ! 地上が見渡す限り、地獄の底でも構わない。自分の幸せなんてそんなもの、どうだっていい!!」


 ふだんは表情の乏しい端正な顔が、火に炙られているかのように歪んだ。


「でも、きみの平穏だけは譲れない! たとえ、何と引き換えにしようとも……! アリア、きみが日の当たる場所で幸せに暮らすことだけがぼくにとって唯一、輝く望みなんだ!」


「……」


 血を吐くような必死の懇願にすら、金の瞳はビクともしなかった。


「お母さんは、国土を取り戻すって言ったわ。富も誇りも歴史も取り戻して、あの夜の全ての落とし前をつけさせるって、その鍵がわたしなんだって、確かにそう言ってた」


 肩で息をする少年に、ニッコリと微笑む。


「じゃあきっと、わたしは生まれつき怪物なの。怪物をやっつける大怪獣として、お母さんが生み出したのよ。それはそれで全然構わないわ。怪物に勝てるなら、よろこんで大怪獣になる。でも、奈落に落ちる気なんてさらさらないの。国も歴史も財産も民も全部取り戻して、みんな一緒にシワクチャになって、死ぬまで幸せに暮らす。それ以外の結末はいらない」


 小さな手が、ふわっと伸ばされた。


「先輩」


 優しく朗らかな呼びかけとともに、冷えた手が、強く握りしめられる。


「一人で地獄に落ちようなんて許さないわ!」


 言葉を失った少年の顔を、太陽のような笑顔が覗き込んだ。


「ずっと闇の中にいる気でも、引っ張り出してみせる。逃げようとしたって無駄よ。わたしは、絶対にこの手を離さないから。怪物と刺し違えるためなんかじゃない。みんな一緒に日の当たる場所で生きていくために、一緒に行くの」


 その言葉と同じ色をした、暖かな黄金。


「あなたが幸せにならない世界なんて、クソくらえよ!」


(……あああ……!)


 紅紫マゼンタの視界が、じわりと熱く歪む。


 ニュクスは握られていない方の右手で、まぶたを覆った。


 過ぎた春の夜。


 おのれが作り出したゴーレムが言ったことが、脳裏に蘇る。


『誇り高き獅子の足を止められるオルフェンなど、いないんだよニュクス』


「……かっ、簡単なことじゃ、ないんですよ……」


「でしょうね。でも関係ないわ。一歩も退かなければ、どんな壁でも崩れるの」


「ぼくは……! ネメシスのように、優しい教師じゃありません……!」


「知ってる! 師匠よりもっともっと、ベッタベタに優しい先生だわ!」


「……ッ、うううう……!」


 日差しのような目が、太陽のような笑顔が、あんなに無惨に奪いつくされてなお、曇り一つない不滅の魂がどこにあるのか、示している。


 ぎゅっと握りしめられた手のぬくもりは、到底、抗いがたい。


 少年の冷えた指先にも知らず知らず力がこもり、気が付けば、小さな手を握り返していた。


 一夜にして永遠に失われてしまったこの熱を、恋しく思わない日などなかったのだから。


「お恨みします、殿下……!」


 半泣きのロードライトガーネットが、見果てぬ外洋(オケアノス)の果てを睨みつけた。


「こんなに立派に育てなくて、よかったのに! もっとゆるゆるの、自己保身に走ってくれる子でよかったのに!」


「あはっ! 照れるわ~」


「きみという子は、あんな目に遭っておきながら! 人の心配ばっかりして! まだ焼き(ごて)の痕だって、痛むはずなのに……!」


 手は大人しく握られたまま、ニュクスは反対側の手で自分の顔を覆った。


「あの記憶を見ておいて聞くことが言うに事欠いて、ぼくの生活費……!? 他にもっとこう……あるでしょう!? ユスティフ王宮で生まれたこととか、イリオン陥落戦を経験していたこととか……!」


「ああ! わたしが二十年前、もう生まれてたってのはびっくりしました! 九歳だとばかり思ってたけど、成人女性だったとはね~」


「いやッ、エリュシオンは時間の流れが違うから、成人女性ではないけども……! きみはかわいい、九歳の女の子ですよ!」


「先輩も、十二歳の男の子です。人の心配ばかりしてるとしたら、それはお互いさまだわ」


 金の炎を潜め、甘い朝焼け色に戻った瞳で、アリアは優しく微笑んだ。


「わたしたちはね、おそろいなんです。愛する人に置いて行かれて爆発しそうな孤独に振り回されながら、たった一人で生きてこなきゃいけなかった、とんでもない寂しがり。だからこそ、大事な人たちの幸せのためなら、竜にだって女王にだって、怪物にだってなれるの。そんなモンスターが二匹もいれば、地図を作り直すことなんて簡単だと思いませんか?」


 手を握ったままニッコリと微笑まれて、ニュクスはとうとう、ガックリと頭を落とした。


「はあああああ~~~~~~~……」


 長い長い、ため息。


 初めて出会った時にも、こうやって長くため息を吐いていたなと、アリアは思い出していた。


 ややあってからこちらを見上げた紅紫(マゼンタ)は不満げで、――口元には、呆れたような笑みがかすかに滲んでいた。


「きみは、残酷だ。けれど……眩しい」


 手を握ったままソファーから立ち上がると、片膝をつく。


 黒衣のローブが、夜の海のようにバサリと床に広がった。


 西の空に迫る夕日色をした瞳はいつかと同じ、滲むように熱い誇りと愛を湛えて、アリアを見上げていた。


「……霹靂(へきれき)、止まぬ嵐にあれば掩蓋(えんがい)となり、炎天、御身を焼かんとすれば、夜の帷となる。常に御許に控え、君命に違わず、その心の願うところを達せんと誓う。――アリア」


 愛しくて仕方がないものを見る眼差しが、地上にただ一人しかいない主を、まっすぐに映しこんだ。


「我が小さな姫。……ぼくの魂」


 握ったままの右手に、そっと口づけが落とされた。


 それは夜の帷(オルフェン)による、忠誠の誓いだった。


「……!」


(かっ、カッコいい……!)


 アリアは、あまりの眩しさと麗しい言葉の照れくささに真っ赤になり、思わず手を引っ込めかけ──、(……いや)と、にわかに険しい顔をした。


(待って。ついさっきこの人、わたしのこと妹って言ったわよね? 舌の根も乾かぬ内よね? ……する? こんなキラキラした顔でイケメン全開100%の振る舞い、お兄さんが妹にやってのける? いたとしたら、だいぶ様子がおかしい兄じゃない?)


 ――もしかしてこの朴念仁、『妹』という概念を著しく誤解しているのではないか?


 コミュニケーション覇者が早くも正解を導き出しかけたところで、足元から「……ふはっ」と小さな笑い声が上がった。


「本当にきみは……どうしてそう、コロコロ表情が変わるんです」


 皮肉屋の魔法使いの顔に浮かぶのは、非常に珍しい、屈託のない笑み。


 世界で一番大事だと、何をしていてもかわいくて仕方がないのだと、うるさいくらい雄弁に語るその顔に、アリアもまたはにかみ混じりの苦笑を返した。


 出会ったその瞬間から、この黄金を傾けてくれた。


 自分がまだ赤子だった時から、ずっと。


 母と永遠に分たれて、もう二度と手に入らなくなってしまったと思っていた愛が、一度だって途切れずに今もこの身体を包んでいるのだということは、アリアにとっても光だった。


 自分の幸せなんてどうだっていいと吐き捨てたその口で、きみの幸せだけが願いなのだと涙目で懇願してみせた、お人好しにもほどがある魔法使い。


(あなたが背筋を伸ばして、日の当たる道を歩けるようになるまで。もう一度、自分を信じられるようになるまで。……絶対に、この手を離さない)


「言っておきますが、ぼくは教師としては本当に厳しいですよ」


「こ、心しておきます! 先輩!」


「はい」


 元気な返事を聴きながら、窓の外の景色を見るふりをしてニュクスはそっと目を閉じた。


 痛痒いこの胸の熱を、もう少しだけ、味わっていたかった。


 笑ってしまうようなハッピーエンドにたどり着けるかどうかなど、きっと神々だってわからない。


 ニュクスだって信じきれない。


 だが、地上に生きるすべての人間が信じていなくても、この小さな姫だけは、大真面目に自分の約束を果たそうとすることだけは確かだった。


 少しだけ待とう。


 灰になるための階段を上がる一歩を、少しだけ緩めよう。


 せめてこの黄金が折れるまで。


(折れたならその時は今度こそ、幸せなものを腕いっぱいに抱えさせて海の向こうに逃がしてやるんだ。……もし、折れなければ……)


 それもいいか。


 少年はロードライトガーネットを細め、かすかに笑った。


 逃げたいと泣き言を言っても、火焔に巻かれて一歩も退かなくても、どちらにしてもやることは変わらない。


 小さな姫がほしがるもの、必要なもの、この世のあらゆる全てを全力で与えることだけが、ニュクスの楽しみなのだから。


 それに、アリアの傍にいる時。


 朗らかな声、降り注ぐ優しい雨に似た歌、目まぐるしく変わる表情、それら全てに触れている時が一番、世界が鮮やかに輝くのだということを、この半年ほどでいやというほど思い知らされていた。


 どうせ灰になるのだから、それまでせめて眩しいものを見ていたい。


 少しくらいなら、許されるだろう。


「あ、そうだ。ちょっと気になったんですけど」


「ん?」


「わたしの父親、最初に見た時には銀の目をしてたでしょ? ほら先輩が、師匠とお母さんの逢引を画策して、沈丁花の茂みに隠れた時」


「ウッ! ……そ、そうですね。それが?」


「でも、次に見た時……師匠を後ろから刺した時には、目が淡い虹色になってたわ。思い出してみると、ランスロットさまも、そうだったんです」


「……! ランスロット……」


 ニュクスの脳裏に、かつて友だった男が、目の前の大事な女の子をしたたかに蹴り飛ばす映像が浮かんだ。


 それと同時に、もやもやと想起されていくものがあり……


「……。何か、忘れているような? ――あっ」


 遠く離れたユスティフの中央部。


「――へしっ」


 謹慎を命じられ、外から鍵をかけられた皇太子の部屋で、くしゃみが一つ、飛び出した。



お読みいただきありがとうございます!


次話は忘れられていたあいつや地の露のイリオンキッズたち、そして人間体のセレスティーネの動向をお知らせします。

一章を畳みに入りながら二章への助走をつけていきます。


ニュクスの誓約シーンを追加しました。あった方がかっこいいかと思いまして(2022/11/7)


以下、挿絵です。

アリアも描いてあるため、イメージを崩したくない方はここまでのスクロールでお願いします!



挿絵(By みてみん)

作中では涙目程度なのでここまでのボロ泣きではないですが、ニュクスの心象風景だとすると、この7倍は感動して号泣しています。

こいつの顔のやかましさと愛の重さ、文章でしっかりお伝えしていきたいと常々思っております。

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[良い点] こんなん脳が焼かれちゃうじゃん…天然パーフェクトコミュニケーションさんえっぐ…。 塵溜に連れて行かれたときはアッアッアッってハラハラしたけど危機一髪ざまあ自分の手で出来て良かったです。 …
[良い点] アリアはやっぱりたらし!
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