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第93話 役立たずの子犬は瞼を下ろした【挿絵】

「ゼェッ……ゼェッ……! ニュクス……頼む……! テイレシアスの代理権を、行使してくれ……!」


「!」


 息も絶え絶えのマイナロスに足首を掴まれて、懇願された。


 冬の日、王冠(ステファノス)の丘でエレクトラが語ったことを思い出す。


「ピュティアの始祖体が……奈落を作り出すという、そのことですか」


「ああ……そうだ……! おれはっ、親父が命を捨ててまで、守った、民を、食い散らかすような獣には、なりたくねえ……! でもッ、もうこれ以上、耐えられねえんだ……!」


 金混じりの赤い目に、じわりと涙が浮かんだ。


「自死の大罪を犯す、勇気もねえ! ごめん……ニュクス、ごめん……!」


 その表情から、『テイレシアスの代理権』の正しい執行方法とは自分が知っている通りのものであるのだと、ニュクスは悟った。


(……い、いやだ)


 どうしても頷きたくなくて、「……でも!」と首を横に振る。


「行き先は奈落(タルタロス)だけなんですよ!? なぜお前が、奈落に落ちなければならないのです! こんな姿になるまで民を守り、戦い抜いたお前が……なぜ‼」


「ゼエッ……ゼエッ! ……ば、罰だ……」


 苦しげに喘ぎ、ボタボタと脂汗を滴らせながら、狼の少年は首を振った。


「運命が、終わるまで……燃やし、尽くせなかった……! 弱音を、吐いた……! だが……それでいい。獣、にも、ならず……この苦痛を終えられるのは、それしかねえ……!」


「……!」


(……嫌だ!)


 ニュクスは助けを求めて、アルファルドを見た。


「……」


 地に伏したまま、毒を断続的に吐き続けるオレンジの瞳は、言葉もないままこちらをただ見上げていた。


 頼むという目だと、言われずともわかった。


 倒れ伏し、苦痛の果ての果てを味わっているいくつもの赤い目が、ひたすらニュクスを見上げ、声もなく乞い願っていた。


「……ふはっ」


 おかしくもないのに、笑みが浮かんだ。


「冗談でしょう? まさか、そんなこと……そんな……」


 (すが)ろうとしても返ってくるのは、引き()るような浅い喘鳴(ぜんめい)だけ。


「い、嫌です。絶対に嫌です。ぼくにはできない。無理だ。どうあったってできっこない。だって、だって……!」


 テイレシアス家のタイタンたちは、奈落へと続く扉の鍵を持つ。


 ピュティア家のクスシヘビには、鍵を持つ手がない。


 ただその長大な身こそが、奈落へと続く道になる。


 ピュティアの始祖体が奈落に導くということはつまり、――人間を丸呑みにするということ。それ以外にないのだった。


「どうして……! どうして、ぼくが……ぼくだけが……!」


 脂汗に塗れたいくつもの赤い瞳。

 古い神殿。

 神なる山稜(いただき)

 頭上に広がる満点の星座。


 いずれも答えを返してくれず、ただ血と糸杉の臭いのする夜風が吹き抜けただけだったが、――ニュクスは、唐突に理解した。


(ずっと無祝福だと思ってきたけど、そうではない。そうではなかった。これが……ぼくに与えられた、祝福だ)


 音寵の調べを失っても、狂気に呑まれない。


 常にただ一人、いかなる地獄であろうとも正気であり続ける、――『動かざる理性』という祝福。


 気づいた瞬間、圧倒的な孤独に差し迫られ、ニュクスはクセのある黒髪を掻きむしった。


「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」


 すべてを捨てて逃げ出してしまいたい。


 後ずさろうとした足はしかし、一歩も動かなかった。


 彼らが今も味わっている苦痛の途方もなさを知っていたから。


 ――あれは昼下がりの日差しが差し込む、第一学年の教室だった。


 羽ペンでガリガリと式を構築している最中だというのに、突然パピルスの上に影を落とされて、ニュクスはこの上なく迷惑そうに眉をしかめて邪魔者を見上げたのだった。


『お前だよな? ピュティアのクソ生意気ってのは。一目でわかったぜ!』


『なあなあ、暇ならゲームしないか。負けたやつは今日一日、語尾にワンってつけるんだ』


 初めて会った時から、信じがたいほど馴れ馴れしい二人だった。


 子どもというものを徹底的に見下していたニュクスは、いつもどおり叩きのめせば二度と話しかけてはこないだろうと高を括って相手をし、初めて、兄以外の人間に負けたのだった。


 マイナロスもアルファルドも、オルフェンの嫡子という立場に見合った、才に恵まれた少年だった。


 ハルナソス山よりプライドの高い少年は何度も再戦を挑み、二人も面白がって応えるうちに、いつしか互いの家を行き来する仲となった。


 振り返れば一年中どの季節も、日が暮れるまで遊んでいた。


 なぜ彼らが三つも年の離れた自分に話しかけてきたのか長年疑問だったが、首席を取ることだけに一心不乱となり、友だちの一人もいなかった年下の夜の帷(オルフェン)を気にかけてくれたのだろうと、長じるうちに気が付いた。


 彼らのおかげで、友を知った。


 孤独など感じる隙もないほど、やかましい笑い声に満たされた。


 その優しい(リカオン)海蛇(ヒュドラ)が、かくも残酷な願いをするほど、この世の果てから流れ来る苦痛が魂を蝕んでいる。


(……)


 ――もう、休ませてやりたい。


 最後に一度だけ、二人の友の赤い双眸を見つめると、ニュクスは固く瞼を閉じた。


「お恨みします、神々……!」


 左手が円環を描く。


 ――莫大な質量のものが現れ出た。


 ピュティアの始祖体は、クスシヘビではない。


 古い伝説に描かれた、神託の竜ピュトンである。


 漆黒のウロコを持つ竜の頭は仰ぎ見るほどの高さ、胴体は建物すら飲み込むほどの太さで、尾はどこまで続いているのか、夜闇では追いきれぬほど長大だった。


 鍵爪のついた足が地へ降り立つと、ズン……と重たい地響きが遅れて響く。


 白砂が舞い上がり、風圧で木々がのけぞった。


 竜が頭を地に垂れて、大きな口を開くと、――その咽頭の奥底は、ほのかに青い光が沈む長い長い穴。


 マイナロスは、毛皮をかきむしっていた手を止めて、「ああ……」とかすかに顔を和らげた。


「あ、ありがとよ……。獣に成り果てるより、奈落の底で神に仇なした英雄たちに引き裂かれるほうが、ずっとずっと、マシだ……」


 ボロボロの身体を引きずって、竜の大口に手をかける。


「ごめんな、ニュクス。一人にして」


『……』


 始祖体の喉からは、嗚咽一つ、拒絶一つ、出てはこない。


 狼の少年が身を投じると、――ゴクンと竜の喉が上下した。


 アルファルドが、そのあとに続いた。


「すま、ない、ニュクス……」


 吐き続けた喉は胃液に焼け爛れ、痛ましいしゃがれ声となっていた。


「また会おう」


 ――ゴクン。


 再び竜の喉が嚥下する。


 呑み込むたび、始祖体の鋭敏な嗅覚が、触覚が、味覚が、知ることなどなかったはずの情報を詳細に伝えてくる。


(マイナロス、アルファルド……。お前は、お前たちは、こんな……味だったのか……)


 何も忘れることのできない少年の脳裏に。


「ごめんな、ニュクス……」


「こんなことさせて、許してくれ……」


 息も絶え絶えの若きオルフェンたちが、地面に血の(わだち)を作りながら、後に続いていった。


 顔見知りを、友を、友の弟妹を、親族を、一人呑み込むたびに腹が重くなっていくのを感じた。


 全てのオルフェンを飲み込んだあと。


「ニュクスさま……」


 真っ赤に泣き腫らした目のタゲースが、血まみれの布を手に竜を見上げた。


「お願い。ぼくも……連れて行って。ここじゃもう、生きていけないんだ。お母さんもお父さんも友達も、みんな冥府にいる。寂しくて……気が狂いそうで、もう一歩だって歩けないんだ」


 すすり泣く声が、あちこちから聞こえていた。


「あああ……! アルファルドさま、アルファルドさまぁ! 頼む、ニュクス・ピュティア! おれも奈落へ落としてくれ! あの方が奈落で八つ裂きにされるのなら、おれも同じ死に場所がいい……! だって、それだけが、おれの願いだったんだ……!」


 ボレアースが地面に膝をつき、滂沱の涙を流しながらそう願った。


 ――ドン!


 突如、頭上のハルナソス山が轟音を上げた。


「!?」


 無数の火山岩塊(がんかい)(つぶて)が、街へ浜へ弾き飛ばされていく。


 赤く輝く火山弾が森へ落ち、一気に森林が燃え上がった。


 ガスを星雲のように噴き上げる火口から現れたのは、――溶岩を纏った灼熱の巨人の腕。


「なんだ、アレ……!?」


「わからない……。けど無理だ、もう……」


 山頂を見上げる赤い目に、絶望の涙が滲んだ。


 折れぬことを知らぬ不屈のイリオスたちの心は、導くものを全て失い、やっと、完膚なきまでに砕かれたのだった。


「陛下も……エレクトラさまも、ザヴィヤさまも、もういない。オルフェンすら奈落に落ちた。どうあっても、朝日を拝めることはありえない。すまない、ピュティアの若君、……おれたちも、同じ場所へ連れて行ってくれ」


 竜は、言葉を発さなかった。


 ただ、こぶしを握るように前脚が砂を掴むのを、紅紫(マゼンタ)の眼がつらそうに一度閉じられるさまを、民は見ていた。


 閉ざされていた口が、再び開けられた。


 ――全ての民を呑み込んだころ。


 東の空はわずかに明るくなり、澄んだ青が広がっていた。


「……うぷッ……」


 人間体に戻ったニュクスは、人々が消えうせて血の痕だけが残った山中で、膝をついて崩れ落ちた。


「はぁっ……はぁっ……はぁッ……!」


 何度深く息を吸っても、抗いがたい嘔吐感。


「ううう、ううううう……ッ‼︎」


 ボタボタと涙を流しながら、唇を噛み締めて必死に堪える。


 ここで自分が吐いてしまったら、彼らは二度、死の苦痛を味わわなければならなくなる。


(……ああ、でも……。吐いて、しまいたい……)


 たとえ彼らがすでに人間の形をしていなくても。


 だって昨日までうっとおしいほど近くにあった何もかもが、今や一つも残っていない。


(静か……すぎる。静かすぎる……)


 耳をつんざく雄たけび、やかましい笑い声、すぐにおっ始まる殴り合い、いつだってどこかから聞こえてくるのんきな歌。


 永遠に失って初めて、自分が心からそれらを愛していたのだと知った。


(……さみしい……)


 火口から手を出した怪物は、イリオン中に溶岩や火山弾を投げ散らかしていた。


 まだ生き残っているイリオスたちが逃げ惑う中、ユスティフ軍もまた怪物の操る灼熱によって、甚大な被害を受けていた。


 しかしそのことは、もう心を動かさなかった。


 左手が空を切る。


 ニュクスは再び変身体に変じると、異形の怪物が灼熱の手を出す火山を回って、海中に身を投じた。


 目指すのは、魔法を遮断する六角形の障壁の外。


 幾本目かの柱を超えた時。


 ヘビの聴覚に、聞き慣れた砂地を渡る風の音が届いた途端、転移魔法陣を起動した。


(……役立たずの、裏切り者……)


 心中でそう吐き捨てながらたどり着いたそこは、コンフィニア――ユスティフ王宮の幽閉塔。


 夜明けの青い光が淡く降る花園で、最後に見た時と同じ体勢をしたクロリスが横たわっていた。


 とっくに血は固まって、触れた身体は外気と同じ冷たさをしている。


 ヘビの口で兄をくわえると再び転移魔法陣を起動し、ピュティア一族の祖廟へ移動した。


 千年以上もの間揺らぐことのない、強い守護がかけられた場所。


 兄を下ろして変身体を解き、ニュクスは白大理石の地面へと倒れ込んだ。


 身体が、深い泥に引きずり込まれていくように重たかった。


 これ以上は指一本だって動かせそうにない。


(なが)の眠り……。これが、始祖体の消化か……)


 身に余る獲物を呑み込んだヘビが胃の腑で獲物を溶かし切るまで眠るのと同じく、ニュクスの身体は長い休息を必要としていた。


「殿下……。もう、目も耳も、開けていたくはありません」


 話しかけたい人はいまや、この地上に一人もいない。


「眠らせてください。何もかも全て、終わってしまうまで。……この世界は、つらすぎるから」


 まぶたを閉じると、幾筋めかの涙が頬を伝っていった。


 飾り窓から朝日が差し込む祖廟で、ニュクスは眠りの神に魂を委ねた。






 消化には、長い長い時間を要した。


 次に紅紫(マゼンタ)の瞳が開いた時には、イリオンが滅びた夜から実に十八年の歳月が経っていた。






 目覚めたニュクスが最初にしたことは、隣の白骨死体の骨、そして周りの泥を使ってゴーレムを作ることだった。


 写し身の骨、長い時間をかけて微生物に死体を分解された泥を使って作られたゴーレムは、まさしく生前の姿を再現した。


「……あ、あにうえ……ゴホッ、ゲホッ」


 久方ぶりに使った声帯は、クモの巣でも張っているかのように粘ついて、思わず咳き込んだ。


「あなたがわたしの主人(キリオス)ですか?」


「……ああ。まだ、読み込みに時間がかかっているようですね……。これだけ本物の身体を使えば、魂の欠片が宿るはず。兄上はそんな話し方をしません」


「理解しました。修正します。――うん、こんな感じかな。それで、わたしの名前は兄上でいいのかい?」


「ええと……」


 そこでゴーレムの開いた目を初めて見たニュクスは、一瞬、言葉を失った。


「……ふはっ」


 口をついて出たのは、苦い自嘲。


「……そうか。そうだよな」


 クロリスの瞳はニュクスと同じ、夕日の迫る西の空に似たロードライト色をしていた。


 しかしそのゴーレムは、兄の優しい目とは似ても似つかない、激怒に染まった金眼を持って生まれ落ちたのだった。


(もうこの世界の果ての果てまで探したとしても、どこにも、いないんだ。これは、兄上の写し身じゃない。……ぼくだ)


「お前に名を与える。お前は――ネメシス。ぼくの復讐(ネメシス)だ。たった一人残されて絶望を呑み込むハメになった、役立たずの子犬の復讐を糧に、敵を討ち滅ぼすもの」


 蔦が生え、大量の落ち葉が吹き込み、すっかり荒れ果てた祖廟。


 少年の瞳に一瞬金の炎が走り、すぐに消えた。


 ゴーレムは一対の黄金を細め、「了解」と頷いた。






 ++++++++++






「つまり、この家にはずっと、ぼく一人だったんです。ネメシスは基本的に、この地の露の家(ティルマティム)……かつてピュティア一族の祖廟だった場所から、離れることはできません。あれが動く時は、任せた仕事が終りを迎える時です」


「……」


 羊皮紙に映し出された壮絶な記憶を、アリアは身じろぎ一つせず、じっと見つめていた。



お読みいただきありがとうございます!


これでイリオン滅亡編は終わりです!

「旋律のアリアドネ」は勧善懲悪ハッピーエンドの物語…

ゆえに、死者も含めて全員で勝ちを掴みに行きます。

あと死者たちは相当おもしろおかしく冥府で暮らしてますので(本編描写予定)、このボロ負けも「フリだな」と思って信じてお待ちいただけますと幸いです!


実はニュクスはアリアの激烈強火ファンとして描写しているのですが、この人生を生きた彼にとってアリアがどれほど眩しい存在なのか、次話で明かしていきます。

ヒロインの意図せぬパーフェクトコミュニケーションをお楽しみください。


以下、挿絵です。

イメージを崩したくない方はここまでのスクロールでお願いします!




挿絵(By みてみん)


灰にするために書いた集合絵でした^^

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作者ピクシブアカウントはこちら→「旋律のアリアドネ」ピクシブ出張所
小説家になろう 勝手にランキング
作者ツイッターアカウントはこちら→@BiggestNamako Twitterアカウント
― 新着の感想 ―
[良い点] 次回は復活する強メンタルによる意図せぬパーフェクトコミュニケーション話 [気になる点] アリアの年齢と経過年月が一致しないと思ったら、この世界から離れていたからなのか。
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