第90話 その王冠は、夜が明けるまで
(!? 痛い! 耳が――痛い!)
まるで鼓膜から脳に向かって千枚通しを差し込まれているような、鋭い痛み。
奥歯を食いしばっても一向に過ぎ去ることはなく、むしろ苦痛の度合いを増し、やがて無数の虫が頭蓋骨の中を這いずり回り始める。
(目が……! 目が……ッ!)
何者かが、眼球をスプーンで抉ろうとしている。
「う、あああ……! ハァッ、ハァッ、ハァッ……! うう、ううう……ッ!」
額から滝のように溢れる脂汗も、鼻からボタボタと垂れる血も、力をこめるあまり食い込んだ爪が皮膚を抉ることも。
堅牢な苦痛の檻の中では、果てしなく遠い出来事だった。
「ッ……オエ、エエ……ッ!」
苦痛のあまり、胃液を吐く。
視界がバチバチと明滅し、白くなる。
だが気を失うには、痛すぎるのだ。
ニュクス以外のオルフェンたちも身体をくの字に折り曲げて、耳を押さえ髪をかきむしり、地面に倒れ伏していた。
「あああ……あああ……!」
「痛い、痛い痛いいたいぃぃ……」
「ぐううう……っ! ゲエ、ェェェ……、ぉええっ!」
当主たちの、友人たちの、顔なじみの、聞いたこともないうめき声。
(……これは……きっと……)
これまで生きてきて感じたことなどないが、わかる。
かくも気が狂いそうな苦痛を与えてくる事象は、一つしかない。
王宮へ向かって駆けていった、王太子と騎兵たち。
あの男の腰には、兄を後ろから刺したのと同じ、古めかしいレイピアが下げられていた。
つまりやつらは首尾よく、目的を達成したのだ。
――王の死。
(音寵が……失われた……!)
途方もない苦痛のなかで状況を理解したニュクスは、しかし何もできずにうずくまったまま、絶望に目を見開いた。
この痛みが和らぐことは、決してない。
むしろ時間が経つにつれて倍増し、――やがて、自分たちの理性を奪う。
理性を失ったオルフェンは、怪物と成り果てる。
敵も味方も、罪人も無垢な幼子も区別なく食い荒らし、自分の身体を苗床にして迷宮を形成する、恐るべき化け物となるのだ。
(嫌だ……嫌だ! なっ、なりたくない……! 怪物になんて、なりたくない!)
理性が呑み込まれゆく恐怖に、浅い息とともに引き攣った悲鳴を漏らす。
無数の虫たちは、今や全身の皮膚の下を這い回り、無遠慮に肉をついばんでいた。
頭蓋骨をギリギリと鉄輪で締めつけられる苦痛に、いくら抗おうとも、視界は極彩色の渦に飲み込まれていく。
――不意に、温かな風がふわりと身体を包み込んだ。
血に満ちた鼻腔に、潮と花の匂いが触れる。
「……?」
虫も苦痛もたちどころに消え去り、荒い息を吐きながら身を起こすと、火の粉とは違う黄金の光が、まるで綿毛のように夜風に舞っていた。
それは、歌だった。
霞んだ視界の霧が晴れれば、赤子を抱く金の髪をした姫が、あやすように歌う姿が像を結ぶ。
口ずさむのは、ハミングにも子守唄にも似た優しい音色。
妙なる竪琴の音が、どこからか鳴り響く。
幾重にも重なる、無数の澄んだ歌声。
ほのかな黄金色に輝く旋律――
「……音寵だ……」
誰かの掠れたつぶやきが、夜風に吹かれて落ちた。
苦痛の果ての果てを味わったばかりのオルフェンたちは、呆然と光を見上げながらも、自分の身にこれまでとは別の、なにか――尊大で傲慢で、女性にしては少し大きな力強い手が添えられたことを、たしかに感じていた。
新しい音寵の調べ。
それはつまり、新たなる王の目覚めにほかならない。
「……陛下」
最初に威儀を正して膝をついたのは、エレクトラだった。
ザヴィヤが跪き、セイリオスが続くと、それに倣って全てのオルフェン、そして経緯を見守っていた全ての市民が、膝をついた。
火砲の攻撃を受けて崩壊した、日干しレンガの大通り。
「新しき黄金の獅子の目覚めを、お慶び申し上げます」
「お慶び申し上げます」
「「「お慶び申し上げます!!」」」
「うん」
異形の者たちにかしずかれ、炎に包まれた宮殿を背後に背負い、プラチナブロンドが火の粉にあおられ大きく翻る。
「面をあげよ」
どん詰まりの、灰になる寸前の燃え盛る国を託されてしまった女王は、――朝焼け色の瞳を愛おしそうに細めて、微笑んでみせた。
「わたしの血、わたしの肉、わたしの全て……わが愛する、不滅のイリオスたち。たとえ一夜の王になろうとも、この智慧、力、命すべてを、お前たちに捧げると誓う」
ニュクスは膝をつき、頭を垂れながら、――ポタポタと涙を流し、鼻を啜っていた。
「ズッ……グスッ……ちちうえ……!」
卑劣な裏切りに遭った兄だけでなく、王と共に運命を共にした父にもまた、置いて行かれてしまったことを、悟ったからであった。
――さて。
猛々しい夜の帳たちが矛を収めたその隙を、敵将オーレルは見逃さなかった。
「擲弾兵、掃討術式を展開せよ。飛龍騎兵団、第二連隊、前進。――薙ぎ払え」
「……!」
半神たちの鋭敏な嗅覚に届く、火薬の臭い。
上空を見上げると、無数の小さな礫が、雨のように降り注いでいた。
礫が人に当たると、激しい閃光と共に、赤い肉塊に変えていく。
「手榴弾……!」
空中から爆弾が降ってくるなど、悪夢でしかない。
「あああ痛い! 痛い!」
「お母さんッ! お母さあんッ!」
礫の雨から逃げ惑う民を刈り取ろうと、榴弾兵の範囲外で騎兵が待ち構える。
「ザヴィヤ、エレクトラ! 防げ!」
女王の命を受けたタイタンが騎兵の爆裂槍をその身で受け、翼を広げたハルピュイアが風圧で手榴弾を押し返す。
打ち返された礫は擲弾兵の一群を閃光に巻き込み、上空から臓物が降り注いだ。
ユスティティアは、藤の花でも掻き分けるように腸を払うと「苦労をかけるな。わたしの愛しい家族たち」とニッコリした。
「では、行こうか」
「ど、どこへ?」
「撤退だ。ハルナソス山脈を回り、南へ。それでも追い付かれたら他の島へ。逃げて逃げて、逃げおおせよ」
――潰走。
その二文字が脳裏に浮かび、当主たちは揃って押し黙った。
「そっそんな、そんなあ……!」
マイナロスは、この世の終わりだと言わんばかりにワナワナと震え、紅い瞳を潤ませた。
「おやおや。悲しい顔をしてくれるな」
もとの毛皮の色も識別できないほど敵とおのれの血に塗れた狼の少年に、ユスティティアは困ったように笑った。
「お前たちのいる場所が、いつでも世界の真ん中だよ」
鷹揚に笑いながら、腕の中の娘の、柔らかな頬を撫でる。
「父の代わりはわたし。わたしの代わりはこの娘。だが、誰もこの子の代わりにはなれぬ。アリアドネこそ、希望だ。決して奪われてはならぬ、最後の光。――さあ、疾く駆けよ! 夜の帷ども!」




