第89話 この地獄からの歌を聞け
(腑抜けるために、戻ったわけではない……! そんなことのために一人、生き残ったわけではない!)
――高い場所から、抗えぬ力になぎ倒され、手折られていく命は。
陽光の中、コバルトブルーの海に勢いよく飛び込んだときの、視界を埋め尽くす無数の透明な泡によく似ていた。
伸ばした手を置き去りに、またたく間に空へ立ち上って、何も残さず消えていく。
ただその淡い軌跡が、視界に残光を描いて。
(違う。……違う。命とはもっと身勝手で浅ましく、鮮烈で、……どうしようもなく、輝くものだ)
六歳の時に奇襲のような絡め手で見習い修了証書をぶんどって、八歳にして往来で卒倒した患者の蘇生を成功させて以来。
外来に立ち、往診の助手を務め、年に見合わぬ数々の病と生と死に触れてきた記憶が、首を振って力の限り叫んでいた。
(泡沫のように美しくあって、たまるか……! 手を握り、爪痕を残し合いながら生きてきた者たちを……こんなふうに掻き消されて、たまるものか!)
今永らえているおのれの命も、いつまで保つかわからない。
夜明けを迎えることは、おそらくできない。
(無駄にするな! ぼくは誇り高き夜の帷、そして……最後に残された、医神の使いだ!)
ぎゅっと瞼を固く瞑り、開けた時、紅紫の双眸の震えは止まり、少年は目の前の全てを見据えていた。
「目覚めよ 我が血」
左手を振るい、漆黒の大蛇の変身体へと姿を変える。
『兄上は死にました』
蛇の言葉で告げられた知らせに、マイナロスは息を呑んだ。
「う、嘘だろ……!? あのクソ強ェクロリスさまが!?」
『だからぼくが、兄上の代わりに戦います。……教えてください、マイナロス。敵を屠るには、どうすればいいか』
友人たちは目を見開いた。
この並外れた天才で、鼻っ柱が強く、生意気極まりない年下の親友が、何かを教えてくれと素直に乞うたのは、彼らが知る限り初めてのことだったから。
(……お前が、そんなことを言うようになるなんて)
喜ばしいはずの友の成長だったが、それが家族を毟り取られてなお、膝をつくことを許されない地獄の底で成されたという事実は、ものごとを深く考えることに全く向いていない狼の少年の胸の裡にも、静かで冷たい水を湧かせた。
「……そんなの」
マイナロスは力強い笑みを浮かべると、
「お前のそのでっけえ身体で! ガバーッとなぎ倒し! グワーッと打ち据えて! バキバキィッと絞め殺しゃあいいんだよ!」
……バイブスのみが迸る聞くだけ無駄のアドバイスをして、胸を張った。
ついでに激励として巨大な手でバン! と背を叩き、ニュクスは5ヤルクくらい吹き飛ばされて『ふべっ!』と瓦礫に頭から突っ込んだ。
「あ、わり」
『ウッ……ゴホッ、ゴホッ! き、聞いたぼくがバカだった! お前の頭蓋骨には脳じゃなくて筋肉が詰まっているのだという事実を、忘れていました!』
「おーいおい、頭蓋骨って頭の骨だろー? そんなとこどうやって筋トレすんだよ。アホだなニュクスは~」
『クッソが……!』
「なあ……漫才は控えめにしてもらっていいか……?」
アルファルドは、顔を片手で覆いながらプルプルと肩を震わせていた。
クスシヘビは、ヘビの中でも極めて高い登攀能力を持つ種族である。
漆黒の大蛇は、滑らかな石造りの壁を一瞬で上ると、切妻屋根が吹き飛んで梁がむき出しとなった議事堂の二階から、空中に跳躍した。
狙いは、縦列を組んだマスケット兵の一群。
銃を構えた男たちは、突如、空から降ってきた大樹にしたたかに打ち据えられた。
「!?」
隊列が大きく歪む。
他人の手足や銃が身体にめりこんで、骨が砕け腹が破裂し、わけもわからぬうちに目を見開いて絶命していく。
(ッ……怯むな! 怯むな!)
人の骨を折る音。
吐き出された血や臓物の熱さ。
破けた人体が発散する、強烈な刺激臭。
──人を救う手には二度と戻れぬ、還らずの道。
ニュクスは歯を食いしばり、二の足を踏みそうになる心を叱咤した。
(殺さなければ、守れない! 交渉も命乞いも、やつらの蛮行を止めることはできない! 民を殺し、ぼくから兄上を……ぼくの全てを奪っておいてまだ、飽き足らず! 見渡す限りを蹂躙しようとしている、この獣どもを!)
もう医者を名乗れなくても、構わない。
一度壊れてしまえば、たとえ神々だとしても決して元のようには直すことができないものを、守ることができるのなら。
『……我が一族は、千年を超えて医神に仕えてきた、クスシヘビの裔。闇の中にあっても輝く、生命の熱さを知る者』
頭上でいまだ煌々と白銀の明かりを投げかける悪趣味な女神像を、強く睨み上げる。
人間には聞こえない言語。
だが、この我が身を灼き尽くさんばかりの怒りを歌うのに、言葉はいらなかった。
『明日を迎えるはずだった命を、数多踏み躙ったその傲慢……! 取り返しのつかぬ罪の報いは、お前たち自身の肉体で贖え!』
銃弾の雨が降って来る。
だが、もとより弾道が安定しないマスケット銃。
目にもとまらぬ速さで地を這うヘビに当てることなど不可能である。
爆裂槍をもすり抜け、長大な身体で人体を叩くと、ニュクスの尾に弾き飛ばされた端から水風船のように破裂していった。
腹に穴を開けられた瀕死の敵兵を、大きく開けた顎で咥える。
フォン! と風を切り、地上から振り上げられた敵兵は上空の騎兵に衝突し、馬同士もつれ合いながら三体の騎兵が撃墜されていった。
「ウハハハハハ! いい投球だ!」
マイナロスは血まみれの手を叩いて笑った。
「いいぜ、残虐だ! 呑み込みが早ェじゃねえか! そう、敵は人間なんかじゃねえ。おれらバケモンどもの狩り場にのこのこやってきた、かわいいかわいいウサギたちだ! ちょーっとむさいオッサンの面ァしてるけどな!」
ニュクスは、こちらへ向けて装填済みの銃を構える一群に気付いた。
『!』
おのれの背後には、命よりも大事な、朝焼けの瞳をした二人の姫君。
少年はわずかにも躊躇うことなく、ユスティティアとアリアドネに銃弾が当たらぬよう、自分の長い身体で一斉射撃を受けた。
無数の鉛の弾が皮膚を抉り、肉を弾けさせる。
『……ッ!』
(い、痛い……!)
だが大蛇の身体ゆえ、これしきでは致命傷にはならない。
そのまま隊列に襲いかかろうとする前に、――背後から、粘性の高い液体が銃兵たちに向けて射出された。
淡く光るペリドットのような美しい液体が人体を覆うと、火花と煙を上げて、またたくまに人間を炭化させていく。
『やるな、ニュクス』
海蛇の変身体となったアルファルドが、毒液で応戦したのだった。
「これが、あのヒュドラの毒か……!?」
『えっげつな……!』
人体が溶ける嗅いだことのない刺激臭に、リカオンは顔を歪めてフレーメン反応をし、クスシヘビは探知のために出していた舌を引っ込めて悶絶した。
ハイドラ家の半神たちは、地上に存在する千態万様の猛毒を、まるで息をするように生み出すことができた。
中でも、ピュティア家でも解毒できない致死的な作用を持つ種類のものは『終末』という異名で呼ばれ、イリオン国内外から恐れられている。
『なかなかオシャレだろう? こないだイカを食ってる時にインスピレーションが下りてきたんだ。できたてほやほやだから、ラサルさまでもまだ対処できないぞ』
「うおお危ねえ! 終末じゃねえか!」
『虫除けスプレーみたいに街中でホイホイ使うな!』
そんな彼らの成人の儀は、あっと驚く新作の毒を創作料理さながらにお披露目することであり、ハイドラ家の子どもたちは幼い頃からせっせと毒をこしらえては、頑丈な半神たちで――許可を得ず勝手に――試しているのだった。
それぞれの手を血に染めた少年たちの赤い目は、互いへの信頼と、――もう後戻りできない痛みを込めて一瞬、交差した。
「!」
その時だった。
鼓膜を貫く激痛に、ニュクスは思わず人間体に戻って耳を押さえた。
お読みいただきありがとうございます!
あまりに読みづらかったので全面改稿しました(2023/1/22)
必要な描写を足したところ、恐ろしいことに文字数が1万6千字になってしまったので、大変恐れ入りますが分割させていただきました。
先の見通せないチンパンジーで申し訳ありません!!
こんなに早足で読みにくい話を読んで下さった読者の皆様、本当にありがとうございます…!
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