第86話 地上で一番長い夏至
その日、千年王国の民は、不思議な耳鳴りを覚えた。
スピカ北東部。
なだらかな丘陵地帯に広がる、黄金色の小麦畑。
重たげな穂を実らせた麦を収穫していた農夫の上へ、不意に巨大な影が落ちた。
ああハルピュイアの散歩かと何気なく空を見上げた彼は、赤い目をぽかんと見開くことになる。
ラピスラズリを塗り込めたような無辺の蒼穹より現れ出たのは、――見果てぬほどに巨大な、異国の神の像。
三十階建てのエウテリアの大灯台にも、比肩しようかという高さ。
長大な像の端から端まで惜しげもなく純白の大理石で形作られ、乱反射した照り返しが無遠慮に網膜を貫く。
足元にはたっぷりと風を孕んだドレープ。
右手には王笏。
頭の上には五角形をした宝冠。
地平を払うように左手を堂々と前に突き出して、星々を模した金の後光を背後に背負った、麗しき女神像。
およそこの世のものとは思えぬ巨大石像が、何の前触れもなく、オリーブ林の上に浮かんでいた。
「……なんだあ、アレ……?」
音もなく、神像の眼がぐるりと動く。
白銀に燦めくその双眸は、虫を見るような冷たさでイリオンを見下ろした。
口が開く。
その速さは、あまりにも人知を超過していたものだから、ただ真っ白な閃光としか彼の赤い目には映らなかった。
――ドドドッ
遅れて、爆発音が鼓膜を叩く。
抉り上げられた麦畑が薄い絨毯のように上空に舞い上がり、日差しを遮って地に影を落とす。
大の男が宙に吹き飛ぶほどの爆風、それから見渡す限りの有機物から上がった炎の熱さの順に人々をなぎ倒し、皮膚を炙っていった。
――神像の口から放たれた灼熱が、スピカの大地を灼いたのだ。
「……はっ? ……え、ええ?」
したたかにオリーブの幹に叩きつけられながらも、半神の血の頑健さゆえに命を守られた農夫は、ただ腰を抜かして上空を見上げた。
それが、嚆矢であった。
虚空から、遮眼革をつけた黒鹿毛の軍馬がぞろりと零れ落ちる。
背にまたがるのは、分厚い板金で作られたプレートアーマーを纏い、長大な騎槍を手にした胸甲騎兵。
見えない道が引かれているかのように中空に降り立つと、迷いのない足取りで駆け出し、さらに後から現れた無数の騎兵がそれに続く。
民の身体に、槍の先が触れる。
パン! と軽やかな音を立て、まるで熟しきったイチジクの実のように人体の上半分が弾け飛んだ。
「!?」
何が起きているのか理解できぬまま、ただ命の危機だけを感じて散開して逃げ出したイリオスたちを、今度は横隊を組んだマスケット銃兵たちが、過たず撃ち抜いていった。
「飛龍騎兵団、下弦に展開。銃兵中隊、撃方用意。――これより、殲滅作戦を開始する。すべては、永遠なる王の名のもとに」
神像のたもとを駆け抜けていく重騎兵の黒い濁流の中、おのれの黒鹿毛に跨ったまま厳然と動かぬ男は、ひときわ大きな体躯を鎧に包んでいた。
ユスティフ王国軍元帥。『輝かしき七つ星』、バルタザール・オーレル。
建国歴、千二十三年。
松明の月ヘレネー、第二十一。
一年で最も昼が長く、夜が短い夏至の日。
ユスティフ王国陸軍並びに、プランケット家西南国境守護団を中核とした師団相当の戦力が、平時そのもののスピカ島を襲った。
極北の島はちょうど、小麦の収穫に人々が沸き立つ時期であった。
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「わたしは、すぐに異変に気が付いたよ。……タイタンの血を継いでいるから、戦ごとには目ざといんだ。だが配下の軍へ詳細な指令を飛ばすことも、我が土魔法で敵を迎え撃つことも、できなかった。わたしにできたことはただ、巨人族の変身体になって敵兵を蹴散らし、生き残った民をオンファロスへ逃がすことだけ」
彫りの深い柘榴の瞳に、円卓上のランタンの灯りが揺らめく。
「ぷはっ……ぅえっ! ゲホッ、ゴホッ」
刻限は宵の口。
場所は主島、オンファロス。
大地のへそ、王宮へと続く柱廊通り。
テイレシアス家当主ザヴィヤ・テイレシアスが血まみれで語ることを、ニュクスは塩水を吐き出しながら聞いていた。
巨人の半身を持つ一族の長は温良篤厚な人柄を知られており、実際にその顔から思慮深い笑みが抜け落ちることは滅多にない。
だが同時に、彼の真実の姿であるタイタンという種族が、いかなる半神よりも獰猛で残虐な戦狂いであるということもまた、イリオン人にとっての常識であった。
敵に回せば血は不可避の聖人君子。
人格者の皮を被った捕食生物。
どう足掻いても勝てない、ジェントルマン型終結執行機関。
これらは当主ザヴィヤの異名だが、その他のテイレシアス家中もおおむね似たようなもので、ゆえにこの『力こそパワー』の千年王国において、彼らこそが序列一位の夜の帷であり、国家の最高判事として権能を振るっているのだ。
「自分を責めてくれるな、ザヴィヤ。数は少なくとも逃げ果せた民がいたのは、自分の命を顧なかった、お前の尽力が導いたこと」
「殿下……」
たくましい肩に手を置き、優しく声をかけたユスティティアを、ザヴィヤは痛々しい慈愛が滲む眼差しで見つめ、床に手をついたニュクスは涙目で睨み上げた。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ! 殿下……! ぼくはもう、二度と! 変身体で海なんか渡りませんからね!」
ユスティティアは、あたかも快いそよ風が通り抜けたかのように口元に笑みを浮かべると、「おやおや……辛抱の効かない子犬だなあ。こんなんで、本当に夜の帷が務まるものだろうか? 心配でちゅね~、アリアドネ~」と、ふざけた口調で腕の中の赤子をあやした。
まだ首も据わっていないみどり児は、よだれ塗れの口でふにゃふにゃと笑った。
ユスティフの秘術により禁じられたのは、あくまで魔法。
オルフェンの身に流れる半神の血は、いまだ有効である。
ニュクスは大蛇の変身体となり、巨大な口の中に姫君たちを隠して、スピカからオンファロスまで泳いできたのだった。
人の身体のまま遠泳したことは何度もある海といえど、決して海水に強くはないクスシヘビの身。
自分がどんな状態に陥るか簡単に想像がついたニュクスは、「い、嫌ですけど……!?」と首を振ったが、「ガタガタ言うな。さ、疾く従え」と無情な命を下され――生まれてこの方、少年はユスティティアの声に勝てた試しがない――、絶望の中で身を変じた。
(辛かった……っ! 本当に、辛かった! ただ巨大なヘビであるというだけなのに、どうしてぼくがこんな仕打ちを……! このっ、人の心を失った魔人め!)
スピカ島を蹂躙し終えたユスティフ軍は、主島オンファロスの北端に上陸した。
イリオン軍も抵抗しているが、主体戦力のほぼ全てが失われた状態では、圧倒的な火力と速力を持つ敵の相手にはならず、戦線は尋常ではない速さで、国の中心へと近づきつつあった。




