第83話 燦々と、君を離れ
「ぅえっ……殿下が、こっ、子を孕んだ……!?」
寒さ厳しい年明けのころ。
クロリスより小声で告げられた情報に、ニュクスは持っていた古書を取り落としてしまった。
「ああ……年の瀬にご依頼になった人体図を届けにいった時、近衛に中庭の手前で追い返されたんだ。……安静が必要だから、しばらくお目通りは叶わないと言われた」
「……あのケダモノが!」
怒りに任せて、左手の羽ペンをバキッ! と折る。
「まだ婚儀も上げていないうちに、よくも……よくも殿下に無体を働いたな! 汚らわしい類人猿めが!」
「どこ行くんだい」
「ユスティフの王宮です。今から人の皮を被った獣を殺しに行きます」
「待ーって待って待って。ちょっと落ち着きなさい、ニュクス」
「なんッッで落ち着いているんですか兄上は! 殿下を奪われて理性の芯まで失ったんですか!? 今のこの状況を、何と心得ているんです!」
ロードライトの瞳を激怒で金に染める弟に詰め寄られても、クロリスはただ苦痛をこらえるような表情のまま、首を振った。
「レクスは……父王の横暴を止められず済まないと泣いていた。わたしに涙を流して許しを請うてきた。きっと此度のことも、本人にはどうにもならなかったに違いない」
「はあ? 何の寝言ですか? そんなことありえませんよ。まさか兄上、ひょっとしてどうやって子を為すか知らないんですか?」
「十歳児に教えられるまでもないよ……。あのような場所では、子どもが想像もできないようなことが、起こり得るのさ」
「……」
すぐさまニュクスの脳裏には(ユスティフで入手可能な催淫剤というと……あの薬か? それともあの薬か?)とそれらしき秘薬が思い浮かんだが、兄が疲れ果てたような顔でぼかすので、それ以上詰めるのはやめておいた。
だが、譲ってはならないことは依然、残っている。
「……クソトンビと兄上の間のことは承知しましたよ。男同士、どうぞご勝手に。別にあなた方が腹を痛めるわけではありませんからね。――でも、殿下はどうなるんです。好きでもない男に嫁がされて、婚儀も上げないうちに子を孕まされ、心穏やかに過ごしてると思ってるんですか?」
ピュティアは医神の使い、クスシヘビの末裔。
イリオン全ての医術を司る一族の主家に生まれた身であれば、子を為した女人に何が起きるのか、産み落とす時いかなる苦しみが待ち受けているのか、すでに幾度も目にしてきていた。
「……」
「ほら!」
目線を落として押し黙った兄に、弟の短い導火線は再び発火した。
「やっぱり、どう足掻いても死で償うがふさわしい獣じゃないですか! 今すぐぶっ殺してきます!」
「待ちなさいって。……殿下は、リオンダーリだ。オルフェンよりも気高く強い、不滅の王家の姫だ。あの方は、自分の身に起こるすべてを受け止める覚悟をお持ちだよ。……ずっとずっと前から」
ニュクスは、まじまじと兄を見上げた。信じられないものを見るような心地だった。
――そんなこと知っている。
だから、こんなにも慕わしいのだ。
自分の全てを投げ出しても惜しくないほどに、愛しているのだ。
あなただって、そうに違いないのに。
「だからって……主君の身に火の粉がかかるのを、癒えぬ傷を受けるのを、みすみす指をくわえて見ているんですか? オルフェンである、このぼくたちが?」
瞳を落とし、黙して答えぬ兄を、弟は冷たく傲然とした眼差しで睨み上げた。
「兄上には失望しました。……腰抜け」
バン! と乱暴にニュクスが扉を閉めて出ていった部屋で、クロリスは少し斜めに傾いたまま、いつまでも佇んでいた。
――冬の冷たい風を切りながら歩むニュクスの脳裏には、懐かしい思い出が瞬いた。
何度も何度も思い返したあまりに美しい思い出は、天の川に似ている。
姫君が異国へと旅立つ直前。
危険だと止める廷臣たちを、幼い頃から非常に弁が立つ姫君が押し切って、兄とニュクスと三人、ハルナソス山脈を長期行したことがあった。
手も足もまだ小さな幼いニュクスが疲れると、二人でかわるがわるおぶってくれた。
兄がつけた焚き火を囲んで、姫君がニュクスを膝に乗せて、満天の星空を指さしながら、華奢なその指で星座を示した。
『あの白色に光る星が真珠星、スピカ』
『テイレシアスさまのしまと、おなじ名です』
『そうだ、ニュクスは賢いな~。乙女座の女神の持つ、稲穂の部分に当たるんだ。イプシロンを横に寝かせたような形でなぞると、反対側に翼が現れる。だがあの女神、頭がないんだよ……』
焚き火だけが光源の深い闇の中でも朝焼け色の瞳は輝いて、自分を後ろから抱きしめる身体は温かく、力強かった。
姫君の傍に寄ると、いつも柔らかなオレンジの花の香りがしていた。
(もうあの頃には、戻れないんだな……)
ニュクスはこの時、ようやく気がついた。
自分が求めていたものは、兄の幸せだけではない。
何よりも心安らかにいられたあの束の間を、取り戻すことだったのだということに。
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「ぅえっ……生まれた……!?」
その知らせがもたらされたのは、ガーデニアの強く香る初夏のころ。
ニュクスは手にしていたフラスコをガシャン! と落っことした。
「は、早くないですか……!?」
「だよねえ。わたしもあれ~? とは思ったんだけど……、特に異常はなく、元気な珠のような御子らしい」
「……」
「いつお目通りしようか?」
「行きませんよ」
「女の子らしいよ」
「……」
「しかも殿下にそっくりなんだって」
「……あ、明日ならいいですよ」
弟の返事を聞いて、クロリスの顔がパッとほころんだ。
「ああ~よかった! 殿下、ものすっごく寂しがっていたからさ! ニュクスは来ないのか、ニュクスに会いたい、ニュクスはどうしているっていっつもそればっかり。やっと連れて行けて肩の荷が降りるよ! 殿下が殿下似の姫を生んでくださってほんとに感謝だ」
「うう……!」
実際、レクス似の王子であれば頑として行く気はなかったので、うめき声しか上げられない。
ユスティフ王宮へ転移してからも、「クソトンビには絶対に会いませんからね!」と、きつい目つきで兄に釘を指しておく。
「うん、わたしも明らかに爆発するとわかっている爆弾を王太子の前に出す勇気はないよ。王宮に来てまでクソトンビって、お前ねえ……。殿下――王太子妃さまも、人払いをしてくださっているはずだ」
「……」
王太子の付属物のような称号に、もともとしかめられていたニュクスの眉間のシワが、さらに深く寄せられた。
(何だその名称は! 高潔なる不滅のリオンダーリ唯一の後継者を奪っておいて、妃だと!? 反吐が出る……! 奈落の底で業火に灼かれて朽ち果てろ、クソユスティフどもが!)
実際、次代の王をどうするのかは、賢人会議でのもっぱらの議題である。
民たちが気づかわしげに王宮を見上げることが増え、その全てが思い上がった劣等国のワガママのせいだと思うと、腹にどんどん怒りがたまっていった。
「ついたよ」
ギィィ――
兄の手により、コンフィニア――幽閉塔の重い扉が開かれると、眩い光が目を焼いた。
「ああ、久方ぶりだな!」
姫君は、燦々と日の照らす花園にいた。
淡い紫の真珠が溢れるように藤が咲き乱れるなか、日差しと同じ色をした髪がキラキラと輝いた。
「殿下……」
「うん、ニュクス。こっちへおいで」
陽の光のもとで見る姫君があまりに美しくて、先刻まで腹にすくっていた怒りも忘れ、呼ばれるがままにぼんやりと近づいていく。
姫君が抱くのは、ほんの小さなみどり児。
兄と姫君の幸せと引き換えに、――ラピス島の戦火を食い止めて生まれた、二つの王家の血を継ぐ子。
「赤子には日光が大事だろう。だからこうしていつもの暗い研究塔から這いずり出て、日光浴しているのだ」
「……」
まだ産毛のような髪は、姫君と同じプラチナブロンド。
うっすらと開けた潤んだ瞳は、姫君と同じ朝焼け色。
久しぶりの慕わしい声だというのに思わず聞き流してしまうほど、その赤子は愛らしかった。
「名前は……なんと?」
「アリアドネ。古い伝説から名付けた。この子自身が、自分が約束を果たす運命を、手繰り寄せられるように」
「アリアドネ……」
そっと手を伸ばすと、赤子の手も伸ばされて、ニュクスの人差し指を掴んだ。
「……!」
その指の、なんと小さいことか。
小さい指の一つ一つに、さらに小さな爪が生えているのを目にして、ニュクスは目眩がしそうだった。
(こんなにも捻れた運命のもと、生まれてきたのに……)
過酷な人生が約束されている赤子は、まだ暖かなものと美しいものしか映したことのない目を細めて、屈託なく笑っていた。
いかなる祝福も感謝も、到底足りないような気がして言葉にならず、――少年はただ、膝をついた。
見えているのか定かではない宝石のような目に、自分を写し込む。
「アリアドネ姫。ぼくはニュクス・ピュティア。あなたの……夜の帷です。たとえあなたが海の果てにいても、遠い異国に囚われていても、いつだってあなたをお守りします。傷つけようとする者があれば、必ずぼくが退けます。だから――怖い時には大きな泣き声を上げて、ぼくを呼んでください。あなたの泣き声が歌になり、ぼくを導くから」
赤子はニュクスの指を握ったまま、「ぷあ~……」とよだれまじりの返事をした。
胸を炙る心地よい熱を受けて、ニュクスは泣きそうな顔でほほえんだ。
「兄上! もっと近くに来てください! アリアドネ殿下、本っ当に愛くるしいですよ!」
感激のまま振り向いた弟は、――兄の表情を見上げて、言葉を失った。
「……うん。本当に、世界一愛らしい子だ」
クロリスは、まるで半身を引き裂かれる苦痛をこらえているような顔で、――それでいて、心から愛おしいものを見るまなざしを浮かべていた。
(……ああ。兄上は……、ずっと、こらえていたんだ)
人生を賭けた、恋だった。
それはニュクスの思い込みなどではなく、確かにそこにあった。
奪われ、苦痛に身を苛まれながらも、耐え難い痛み以上に、深く深く愛していたのだ。
だから全てを譲り、受け入れ、ここにいる。
「苦労をかけるな、お前たちには……」
姫君の声にも、苦い色が滲んでいた。
「だが、共に在ってくれ。わたしの荷を……少しだけでいい、共に担ってくれ。こんな情けないことを頼めるのは、お前たちだけなんだ。イリオンに残したわたしの半身、――そして、わたしの弟」
その日、日差しに黄金が混じる頃まで、三人は長く共にいた。
赤子は母によだれを拭いてもらいながら、三対の赤い瞳を見上げ、全力であやす少年たちにキャッキャと笑い声を上げては、糸が切れるようにコロンと眠りに落ちた。
++++++
ピュティア一族の祖廟は、イリオンではなくユスティフにある。
深い深い森の中、白大理石で形作られた廟。
はるか昔、まだイリオンもユスティフもない時代に建てられたものである。
夏至の祖霊祭を目前にして、ニュクスとクロリスは墓掃除に来ていた。
使用人も数名ついてきてはいるが、ピュティア一族の教育上、主家の子どもたちが率先して掃除をすることとなっている。
ニュクスは魔法を使って外壁に水を飛ばして砂埃を流し、吹き込んできた落ち葉を風で掃き出した。
クモの巣だけは木の棒を使って撤去する。魔法よりも早いのだ。
「は~~~、終わった。この辺りは深い森だからやたら落ち葉が入ってくるな……」
「そうだねえ。今後もそれは変わることはないだろうね。強い守りの魔法がかかっているから、ユスティフ人にここを認識することはできない」
「千年以上経っても朽ちない魔法ですか……」
「エレウシスの秘技だよねえ」
千年前、見渡す限りの大地はエレウシス帝国のものだった。
そこから天地を揺らがすほどの大戦が起き、国々は分かたれた。
当時から残っている国は、今となってはイリオンのみである。
年月をかけて風化した白大理石は象牙色となり、列柱は傾いでいたが、緻密な植物の彫刻を施された飾り窓から入る日差しが繊細な影を落とす様は、かつて壮麗であっただろう烈日の面影を忍ばせた。
外を見上げていると、一匹の鷹が滑空するのが目に入った。
ピュティアの伝令鳥である。
「! 何だろう」
封書を開くと、中には短い一文。
『ユスティフ ラピスに侵攻 オンファロスに上陸』
「「……は?」」
兄弟の手から、クモの巣が巻かれた棒がスコンと落ちた。
お読みいただきありがとうございます!
あと一歩進めるはずでしたが、作劇上入れておかないといけないエピソードが多く、文字数がやばくなってきたので次に回しました。
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改稿により文字数が増えたので分割しました(2023/5/28)




