第82話 どこにもない約束
「――陛下に謁見を申し込みます」
「バカなことを言うな!」
「バカげているのはそっちだ! 寝ぼけて結論を出したとしか思えない!」
カッと怒鳴り返したニュクスの頬を、パン! と強かに張ったのは、父ではなく兄だった。
「……聞き分けなさい、ニュクス」
いつも優しいロードライトガーネットに、こらえきれない苛立ちが滲んでいるのを目にして、ニュクスは一瞬言葉を失った。
兄に本気で怒られたことなど、生まれて初めてだった。
だが――何より大事な人の一世一代の幸せが、納得できない理由で奪われようとしているのだ。
弟は涙をぐっとこらえ、「いやです……!」と食い下がった。
「こちらがそのようにふざけた条件を飲む理由が、どこにあるのですか? このイリオンに……攻め込むと? ハッ! 馬鹿馬鹿しい! 人間の分際で千年王国に挑もうとするなど、正気を失ったとしか思えない! 浮遊魔法一つ使えぬ身の程知らずの思い上がりなど、片手で叩き潰してやればよいのです!」
「だとしても、血が流れる」
兄の声は、断固として揺るぎなかった。
「家が壊され、家財を奪われ、畑を荒らされて、ラピス島に当たり前にあった日常が損なわれる。それを味わうのは貴族じゃない。民だ。わたしたちオルフェンは、王を癒やし、民を守る夜の帷。……わたしは、自分の運命との約束を果たすよ」
「……!」
――おのれの運命との約束を果たせ。
イリオンの神々の教えの第一義である。
(嫌だ……嫌だ!)
ひたと見据えてたじろぎもせぬ夕刻色の瞳を、ニュクスは頭を振って払い除けた。
(こんなの、許容できない! 兄上と殿下が結ばれないなんて……! 殿下が遠くへ行ってしまったっきり帰って来なくて、兄上がたった一人、残されるなんて! だって、だって――それじゃあ兄上に、ぼくは何も返せない……! これだけが、たったこれだけが、ぼくが兄上に返せるものだったのに!)
腕で顔を隠し、父と兄にくるりと背を向ける。
「運命なんて――クソ喰らえだ!」
「おいっ」
熱の滲んだ声を残して、父の制止を無視して駆け抜けていってしまった弟の立てた風が、クロリスの肌にヒリヒリと沁みた。
「……はぁっ、はぁっ! ……ッ……」
中庭までたどり着いたニュクスは、月桂樹の木に顔を押し当てて、声を上げずに泣いた。
(無駄だった……! ぼくのやってきたこと、積み上げてきた努力、出してきた結果、――全部、全部! 無駄だった!)
大きな日が、西の海に沈もうとしていた。
+++++
ピュティアの次期当主はクロリスのままとなったが、その当人は、部屋にこもりがちとなった。
月に一度の賢人会議を始めとした必要な用向きがあれば出かけるが、それ以外は自室の扉を固く閉ざしたままで、いったい青年が何をしているのか、家人にもよくわからなかった。
クロリスが王女殿下を慕っていたこと。
婚約話が夢のように降って湧き、そして儚くも立ち消えとなり、王女殿下はユスティフの人間となること。
それらは邸の者であればみな知っていたので、若君の傷心を慮り、無理に部屋から引きずり出そうとする者はいなかった。
ある冬の日。
珍しく外に出ていたクロリスを見つけて、ニュクスは目を見張った。
(……?)
いつも落ち着いている兄だが、キョロキョロと辺りを見渡しては、腰掛けの下を覗いたり、カゴをどかしてみたり、何かを探している様子である。
「……兄上?」
「うわあっ!」
「何を探しているんです」
「いや! ちょっと……実験用に捕まえておいたトカゲが見当たらなくてね」
「……ふーん」
隠しごとをしているのだということはわかったが、特に追求はしない。
「そうだ。これから殿下のところへ行こうと思うんだけど、来るかい?」
「!? ……行くわけないでしょう!」
平然と尋ねられ、ニュクスは紅い瞳をまじまじと見開いて兄の正気を疑った。
(信じられない! あのクソったれの王宮には、殿下を横からかっさらったクソトンビもいるのに……!)
「何をしに行くんですか」
「二人の婚約をまだ祝っていなかったからね。――殿下もレクスも、わたしの大事な友だから」
そう答える兄の瞳は、穏やかに凪いでいた。
「……理解に苦しみます」
ニュクスは刺々しく返すと、足早に邸を出ていった。
(まるで、ぼくだけがこだわっているみたいだ。兄上も殿下も、互いの思いなどどうでも良いかのようで……。まさか二人が思い合っていたというのは、ぼくの錯覚だったでも言うのか?)
だとしたら、自分はあまりに間抜けである。
行き先は決めていなかった。
学校も冬期休暇中。数少ない友人たちはそれぞれ一族の行事に駆り出されている。
ピュティア家総本山の医院も、年末年始は外来を閉めていた。
「暇だ……」
がむしゃらになって努力をしてきた少年は、ここに来て目標を失い、初めて時間の使い道を考えあぐねていた。
エピダウロス島で一番高い場所、王冠の丘に寝転んで、ただ冬の巻雲が遠く浮かぶ空を見上げる。
エリュシオンから届く調べにも似た乾いた風が、オリーブの葉を揺らして吹き抜けていく。
――すると、上空を滑空してくる巨大な怪鳥が太陽を遮り、大きな影を落とした。
「おお! そこにいるのはニュクス・ピュティアか。久しいな」
アネモス家当主、エレクトラであった。
丘の上にニュクスがいることに目ざとく気がつくと、ベルベットのような灰色の翼を折りたたみ、変身体から人の身へと変じて軽やかに降り立った。
「エレクトラさま、ごきげんよう。空の散歩ですか」
「うむ。空はよい! 夏の南風は当然爽快だが、冬の玉風もキリリと冴えて気分がスッキリする!」
エレクトラは機嫌よくオレンジの目を細めた。
オルフェンの当主のなかでも最年長。
威風堂々とした風格にふさわしい厳しい人柄であるが、一方でこの日の当たる国の民らしく、気さくな一面をも持つ女傑であった。
「賢人会議にはもう来ぬのか? にぎやかな子犬がおらぬのでセイリオスらが残念がっておる」
「行きませんよ。……兄上が跡継ぎと決まったので」
「なんだ。もう対抗戦はやめたのか?」
「もともと、兄上と殿下を結婚させたいから、ぼくが家を継ごうと思っていたんですよ。でも殿下はどこぞのトンビにかっさらわれてしまったので、望みは潰えました」
「なんと! こんなチビの仲人がいたとはな!」
「……」
カラカラと笑われて、ニュクスは少しむくれた。
「ニュクス、お前に流れる序列二位のピュティアの血はな、序列一位テイレシアスの代理の資格を持っている」
「いきなりなんですか……。知っていますよ、そのくらい」
隣に腰を下ろしたエレクトラに、子ども扱いされたと感じた紅紫の瞳が、不満げに細められる。
テイレシアス家は司法を司る一族。
各島の地方裁判所で審議できぬような大事件は、主島オンファロスにある最高裁判所にて審判されることになり、その際の裁判官を務めるのがテイレシアス家当主のザヴィヤとなる。
エレクトラはゆるく首を振った。
「古い時代からの伝承だ。具体的に言えば、テイレシアス家が奈落へつながる鍵を持つのと同じように、お前自身が奈落へつながる道なのだ。神々に逆らう大罪人が出た時。大いなる罪過が起きた時。そこにテイレシアスがいなければ、お前が奈落への道を開く」
「奈落への道……って、つまり、……どういうことですか?」
「ピュティアの始祖体がそれだと、アネモス家では言われているな。他家ではどうか知らん。古い古い、言い伝えだよ。イリオンが興る前、まだこの地の見渡すかぎりがエレウシスの大帝国であったころから」
「始祖体……」
奈落。
それは、死ですら罪を贖えぬ大逆人を送り込む場所。
有り体に言えば、地獄である。
テイレシアス家は奈落へとつながる扉の鍵を持っているのだということは、イリオンに生きる者であればみな、子どもの頃からよく知っていた。
悪さをすれば、父母からよくよく言い聞かせられるからだ。
「それがうちの家督と何か関係ありますか?」
「ははは! ないかもしれぬな! だが家督がなくとも、お前は始祖体になれば奈落を作り出すことができるのだ。そう考えれば元気が出ないか? 嫌いなやつを好きなだけ奈落送りにできるのだぞ」
「エレクトラさま……。それをしたらぼくがザヴィヤさまから奈落に落とされます……」
「はははは! たしかにな!」




