第81話 戻れない世界が牙を剥く【挿絵】
ニュクス・ピュティアに、同学年の友達はいない。
序列二位の貴族家の子女。
アカデメイア開校以来と名高い才。
キリリと冴えた冬の空気を思わせる、端正な容姿。
人を惹きつけるスペックには事欠かなかったが、愛想笑いの一つもできないコミュニケーション能力の低さ、バカを見下して憚らぬ態度、一言嫌味を言おうものなら百倍にして返してくる苛烈な舌鋒が、あらゆる美点を台無しにしていた。
「ニュクスさま、ここ教えて~」
「ここも~」
「順番ですよ」
だが後輩にとっては、何を訊いてもすぐに答えが返ってくる索引不要の動く百科事典として、たいそう便利がられていた。
「……イオ、どうして途中から水銀が錫に変わってるんですか?」
「え? あっ、あ~~~! 上の式とごっちゃになってた! だ~からぼくのゴーレム、チガウ……チガウ……って恨み言を言いながら爆発四散していったんだあ。納得~」
「タゲース。テオーリアは瞑想、テオルギアは神働術です。これ、二回生の春に習いますよね?」
「だって難しいんだもん! わけわかんなくなるって! どっちもおんなじだろ~!?」
「この分では、また追試だな……」
夏の終わりの昼下がり。
「修了証書をもらったとはいえ、まだ子どもなんだから登校して手伝いでもしろ」という教師の命令により、ニュクスはこの日も後輩たちの勉強の面倒を見ていた。
呼び出しがない時には、ピュティア本家の医院で外来診察室の一室を陣取って、十歳児の診察を受けようという頭イリオンの酔狂な患者を相手にしているか、師範医に同行して往診の助手を務めている。
「よう、鉄仮面。ひよこ相手にご自慢のひけらかしか? ククッ、気の毒になあ! 同じ年ごろのやつらには、性格が悪くて相手にしてもらえないもんだから……!」
そこに現れたのは、子分を引き連れたボレアース。
日に焼けた肌に冷笑を浮かべた凛々しい顔立ちの彼は、ニュクスと同学年の少年である。
親分肌であるボレアースは、自分に追従もしないどころか友だちの一人もいないくせに、学校の王者然とした顔でふるまっているクスシヘビの末裔の息子のことが、当然のことながら、大嫌いであった。
「はあ。何か用ですか? ――赤点」
「はッ!? な、なんで赤点だって知ってんだよ!」
後輩の答案から顔も上げずに言い放たれた冷たい罵倒に、ボレアースの顔は一瞬にして真っ赤に染まる。
「そんなこともわからないんですか? 全く、頭の働きが乏しい者との会話は、時間をドブに捨てるようなものだな」と流れるように皮肉を繰り出しながら、相手が口を開く間を与えずに畳みかける。
「ぼくはもう学生ではないため、採点の手伝いもしているからです。気の毒だからどこをどう間違えたのかは言いませんが……それにしても、哲人王の死の原因を答えよという問題で、『ひょんなこと』と書いたバカはお前だけでしたよ。ああそれと、ほぼ白紙で提出されていた弁証法学、答案に描き散らかされていた糞便はどういった形而上的意味があるのですか? 無明なぼくにはさっぱりわかりませんでした。――才気煥発、賢人たるボレアース先生の教えを、ぼくも乞いたいものですね」
最後の一言でやっと顔を上げてボレアースを映した紅紫には、蔑みがたっぷりと込められていた。
「……! お、お、お前えええーーーッ! バカにしてんのかあああ!?」
少年は爆発した。
涙目であった。
「してるに決まってるじゃないですか。まさか、本当にお前がぼくに教えることがあるとでも? まあ勝手に探す分には構いませんが、おそらく天地を返しても何も出てきませんよ」
「こっ、こっ、この……! クソ陰険ヘビ野郎! 今日という今日はもう許さねえ! 浜に来いッ! 決着をつけてやる!!」
「その憐れな頭では忘れただろうから教えてやりますが、二十八回目の決着ですよ。そしてお前にとって、二十八回目の敗北になります」
「ウアアアアー--!」
手下たちは気まずそうに、無言で顔を見合わせた。
勉強はもとより腕っぷしでも、ニュクスに敵う同年輩はいない。
校内総合格闘技トーナメントで、目の前のいけすかない男にボレアースがKOされた記憶もまだ新しい。
だからボレアースは、引き連れる子分をどんどん増やしているのだ。
「浜ならば、お前に言われなくても行きますよ。マイナロスとアルファルドと約束してるので」
「! アルファルドさま……!」
ボレアースの柘榴色の瞳が、憧れをこめてパアッと輝いた。
彼は、海蛇を祖とするハイドラ家が治めるレルネー島の民である。
各島民たちが自分の領主に心酔している例に漏れず、ボレアースも次期ハイドラ家当主であるアルファルドのことをたいそう尊敬しており、――そのためいっそう、彼と仲が良いニュクスのことが気に入らないのだった。
白大理石の飾り窓から、潮を含んだあたたかな風が吹き込む。
月桂樹を模した透かし彫りが、午後の光の中、少し斜めに影を落としていた。
「イオ、タゲース。もういいですか?」
「うん! ありがとニュクスさま!」
「行っていいよ~」
「待てよ! 逃げんのか!?」
「リュコスーラの南の浜です。来てもいいですよ。――無様に負ける姿を、アルファルドの前でも披露する趣味があるのなら」
紫の転移魔法陣が一瞬で浮き上がり、生暖かい風を吹き上げる。
「……ッ!」
魔法の発動速度も種類も、ボレアースは敵わない。
これに、ほぼ無尽蔵に近い規格外の魔力量と、一度見た文字も図形も丸ごと記憶してしまう頭が加わる。
何より、順位のつくものは絶対に首席を譲らぬという狂気じみた執念により、ニュクスは齢十歳にして、ほとんどの大人が歯も立たない凶悪な魔法使いに成長していた。
(は~~……。ついさっき昼を食べたばかりだというのにもう空腹だ。早く何か狩って、胃に納めよう。そうだ、あの辺りはクラーケンがいたな。うんうん、食い手がある)
――優しい兄に甘やかされ、すくすく育った結果。
その化け物にとって、「無祝福のオルフェン」という複雑な立場は何の劣等感も生まず、ただ異常に生意気で口が悪く、調子に乗った脳筋――重度のブラコンも罹患している――という、ある意味極めてイリオン人らしい性格の少年に成長したことは、幸いであったか。
「ま、待てよ……っ!」
「導け 星の浜」
体面形無しで半泣きの少年からの制止を無表情で黙殺し、ニュクスは転移魔法を起動した。
瞬きより短い永遠を経て、――熱い日差しが、南風にあおられてむき出しになった額をさっそく焦がし始める。
イリオン諸島の中でも南西に位置する島の日差しは、本島より粒度が高く、宝石のような波しぶきの乱反射が目に痛いほど。
「――よう! 遅かったな、もう始めてるぞ! 親父から逃げてて昼飯を食い損ねたんだ!」
ここはリカオンを祖とするリュカイオス家の領地、リュコスーラ。
南の星の浜で、マイナロスたちは銛を持って魚を突いていた。
アルファルドもニュクスもみな、大貴族の子弟。
たくましく、雑に育てられるのが基本のイリオンといえど、邸へ帰ればよく冷えた蜜菓子くらいはいくらでも出してもらえる立場である。
だが、海を愛する半神の子たるもの。よく晴れた日にこうして銛突き漁に精を出し、採れたてを浜であぶって食うのが、いかなる美食にも勝るのだった。
千年前から、浜焼きに魂を捧げてきた蛮族の血は伊達ではない。
ブォン! とリカオンの腕力で投げられた銛を危なげなく掴むと、ニュクスもキトンを脱いでザバザバと海に入っていく。
「またボレアースに絡まれました」
「あ~、うちのか。活きが良いだろ~」
「よすぎです。何度ぺしゃんこにしても蘇ってくるんですよ」
「おい! そっちでっけえイカ行ったぞ!」
「「!」」
少年たちの頭が海中にもぐり、赤い瞳がするどく周囲を見渡した。
イリオンの周辺海域は、古代から息づく巨大生物の宝庫である。
半神でなければ、到底素潜りなどできない危険な場所であるが、産湯として海に浸かり、幼い頃から泳いできた彼らにとっては、自宅前の庭にも等しい。
魚の溜まる場所。
青いサンゴの森。
巨大ナマコの家。
水中に沈んだ太古の都市遺跡。
大物が徘徊する領域。
すべて、地図にでも描かれたように思い浮かぶ。
(……いた!)
マイナロス言うところの「でっけえイカ」――クラーケン。どちらかといえばタコである――の大きな目と目が合い、ニュクスは左手に持つ銛の紐を強く引っ張った。
――死闘のすえ獲物を打ち取り、水上に顔を出したロードライトガーネットに、黄金色の混ざった日差しがキラキラと瞬いた。
(……鳶、飛びて天に戻り、魚、淵に躍る。豈弟の君子よ、遐ぞ人を……作さざらん)
はるか遠い異国の、太平を祈る詩をつい思い返すほど、ニュクスは満ち足りていた。
――喜びを隠しきれない、あの兄の横顔を思い出せば、どんな嵐にも耐えられると思えた。
浜でクラーケンの塩焼きを食らっていたニュクスたちのもとへ、エピダウロス島からの伝令が届いた。
「なんだ?」
「なんか……すぐ帰ってこいと」
「残念だ。そら、足は三本でいいか? 目玉も土産に持って帰れ」
「ありがとう」
海水に濡れた髪でピュティアの本邸に戻ったニュクスを出迎えたのは、――顔色をなくした父と、兄であった。
「ユスティフが……テイレシアス領、スピカ島への侵攻準備をしている」
「……は?」
「侵攻をやめるのと引き換えに……王女殿下と、ユスティフの王太子の婚約に同意せよという要求が出された」
「……」
ニュクスには、なぜ父と兄がこんなにも深刻な顔をしているのかわからなかった。
――魔法も使えぬ劣等国が、何を勘違いして偉そうに条件を提示しているのか。
「当然、蹴ったのでしょう? そんなふざけた要求、こちらが付き合う理由などありません」
「陛下は、要求を受けられた」
「……!」
グラリと大きく目眩がした。
盤石だと思っていた大地は――闇の上に張った薄氷でしかなかったのだと、これから嫌というほど、思い知らされることになる。




