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第73話 極歌 裁きの歌

「だまし討ちみたいにして恩を売るのはわたしのやり方じゃないから、先に言っておくわね」


 昨夜、地下牢でのこと。


「明日の晩だけど、あなたたちは全員、この獣どもの館から脱出する。ティルダも含めてね」


 唯一と定めた主は、まるで夕飯の献立を教えるような軽い声で告げた。


「――なりません!」


 間髪いれずに、急ごしらえの騎士は拒絶した。


 この明朗快活な少女が、()()()()()と称さない意味を、一瞬で理解したからだ。


「わたしはあなたの盾、あなたの剣! あなたが奈落に赴くというのなら、わたしも共に落ちていくまで!」


「それに何の価値があるの?」


 だが、嘲笑の色さえ浮んだ冷ややかな問いに、ティルダは答えるべき言葉を持たなかった。


「ティルダ。腕に覚えのあるあなたにしか頼めないの。わたしは明日、獣たちを根絶やしにする。そうしたらあなたが、この子たちを安全なところまで……できることなら家族のもとまで、送り届ける。やれることをやれる者が行う。それだけよ」


「……ッ」


 絶句した騎士を、たじろぎもせぬ顔が見据えた。


「その後は好きにしたらいいけれど……イリオンの神々が、自死を禁じているのは知っているわよね? 全うしなさい、自分の命を。それが燃え尽きるまで」


 小さな黄金は、「簡単なことでしょ?」と否やを許さぬ威圧を以てほほえんだ。


 残酷な命令だった。


 だが、全て終わってからなし崩しで一つしかない道を歩ませるのではなく、始める前に明かすこと。


 アリアという君主の最初で最後の(めい)は、苦くも甘い味をしていた。


「……我が君の、御心のまま」


 ティルダは奥歯を食いしばって、ただ頭を垂れた。


 ――慈悲深く優しいだけではないその不滅こそ、まさに自分が憧れたものだったから。


『? ……? どういう、こと?』


 セレスティーネは、アリアが何をしようとしているのか、よくわからなかった。


 わからないなりにも何か、――胸をかきむしりたくなるような焦燥を覚えていた。


『ねえ! ねえ! ――アリア! お前、何をするつもりなの!?』


(……)


 いつも朗らかに答えてくれるはずの澄んだ声は、心の中ですら、一言も返してこない。


術符(スクロール)を使いなさいよ! お前の魔法とやらが使えなくっても、術符では逃げられるじゃないの! まさかみすみす、……い、命を捨てようなんて、思ってないでしょう……!? ねえ! ねえってば! ……返事をしなさいよ!』


 アリアはただ、深く眼を閉じていた。


 この声を鼓膜に刻みつけるように。




 ++++++++




 その歌声は、子どもたちにとって、天から降り注ぐ優しい雨のようだった。


 温かな指がそっと肌に触れる。


 幾晩にも渡って痛めつけられた傷を癒し、涙をぬぐい、頼もしい少女が繰り返しそうしてくれたように、頭を撫でた。


「アリア……」


 アニスは、ボアネルジェスは、ニコスは、カネラは、それぞれの色をした赤い瞳に涙を貯めながら、黄金の火に呑まれた小さな姿を見つめた。


『アリア……いやだよ。アリアが死んじゃうなんて、絶対いやだ……!』


 昨夜の地下牢。


 ティルダとのやり取りを耳にしたアニスは、アリアの手首をぎゅっと握って首を振った。


 いったい、彼女が何を決めたのか。


 たとえ口に出して名言されずとも、子どもたちにはすぐ理解できた。


 同じ苦痛、同じ絶望を味わった仲間だから。


『お前の命と引き換えに生き延びるなんて、そんなの……とても、耐えられない。やめてくれ……』


『どうやって歩いていけばいいっていうの? きみを、置き去りにして……闇の中を……!』


『アリアと、ベネが……ここにいるまま、わたしたちだけが生きていくことなんて、できないよ……!』


『泣かないで』


 この時も、彼女の手は優しく頬をなでた。


 今、その目に映るものが何よりも大事なのだと、まなざしが雄弁に語っていた。


『心配いらない。……大丈夫。ずっと、一緒だから。あなたたちの行く末を照らす炎になって、ずっと一緒にいる。闇に怯えたら思い出して。迷子になることがないよう、まっすぐ歩いて行けるよう、わたしの炎が、共にあることを』


 高くあおられた火の粉が、糸杉の背丈すら飛び越えて夜空に明滅する。


 闇に沈む視界で唯一輝くのは、今にも炎に焼き尽くされつつある友の姿。


 身体を折り、重い手枷をはめたまま、祈るように指を組み、皮膚を(あぶ)る苦痛に耐えている。


 それでも、その喉から歌が尽きることはない。


 ――極歌とはすべて、途方もなくエネルギー密度の高い()である。


 技量、魔力ともに極めて高い水準を必要とし、神々に愛された魔法使いだけが歌える領域とされる。


 制御できなければ、波は炎へ変じて執行者を飲み込み、内側からは凄まじい勢いで魔力を喰らい尽くしながら、身の程知らずに神たる領域へ挑み、一歩も退こうとしない愚か者を灰へ変える。


 灰となった魂の行く先は、誰も知らない。


「……アリア……」


 イリオンの子らは、唇を震わせて泣きながらも、誰一人として、目をそらそうとはしなかった。


 アニスとカネラの手を、ティルダが握った。


 繋がれていないほうの二人の手は、ニコスとボアネルジェスが結んだ。


「姫君。……我が君!」


 ティルダの頬を涙が伝った。


 嗚咽を堪えている喉が、燃えるように熱かった。


「あなたと……共に死にたかった。……か、叶うなら、ほんとは……! ほんとは、共に、生きたかった……! ――行きます。せめて、あなたがくべた火を、わたしたちが継いで行く……!」





 一方。


 宴の客にとって、主催者にとって、ためらうことなく無辜の子どもたちを痛めつけた者たちにとって。


 その歌は――身の内を食い荒らす、激流だった。


「ああああああ! 痛い痛い痛い痛いいたいいい!」


 伯爵はたっぷりとフリルを施した胸元を搔きむしって、地面をのたうち回った。


「腹からッ! 腹からなにか出てくるうううッ! た、助けてッ! 助けてくれえええ! 神よ!!」


 泣き叫ぶ喉の奥から、細く尖ったピンク色の内臓が現れ、バキバキバキッ! と男の肋骨を突き破って異形の怪物が外界へ生まれ落ちた。


「熱い熱い熱いいいい! わ、わたくしの顔がッ! わたくしの顔が溶けてるわよおおお!?」


「ひいいいい左目ッ! わしの左目えええ! あああ踏むな踏むな踏むな! わしの左目が転がっておるのだあああ!」


「腕も……あああ足も……! どんどん落ちていくよおおおお……!」


 ある者は目が飛び出し、ある者は鼻が頭蓋骨の中に引きずり込まれ、口が耳まで裂け、腹からあばら骨が飛び出した。


 身体が反転し、骨が皮膚を突き破っていく。


 体毛が、ウロコが、皮膚を容赦なく裏返して生えてくる。


 鼻は潰れ、歯は全て抜け落ちて黄ばんだ牙に代わり、腐り落ちた指の代わりに短く醜い爪が生えた。


「ぶじゅっ! ボブッ、ボゴッ……」


「ぼろろろろおっ……ぷしゅっ、ぶじゅぅぅっ……」


 ――今やウサギ狩りの会場で二本足で立っている者はおらず、地に伏し、空気の漏れるような音を発する、獣に似た肉塊が転がるだけ。


 脱ぎかけの豪奢な衣装と、苦痛と混乱で涙を流す目だけが、いまだ肉塊のうちに人の魂を宿していることを悟らせた。


(ああ……。お似合いの、姿になったわね)


 炎に呑まれながら、アリアは目を細めてすがすがしくほほえんだ。


 極歌、裁きの歌。


 執行者の膨大な魔力を費やして、魂の罪を裁く権能である。


 アリアが命じたのは、その魂にふさわしい姿に変えること。


 汚れなき魂には汚れなき身体を。

 醜悪な魂には醜悪な身体を。


 ――獣は獣にふさわしく、成り果てるがよい。


 アリアの下した裁きは、かくのごときものであった。





 視界が霞む。手足の先が冷たくなっていく。


 あれほど締め付けられていた頭も胸も、炎にあぶられた肌の苦痛も、どこか遠くあるように穏やかだった。


(そろそろ、終わりみたい)


 昨夜、自分に流れる血のありかが、決して破れてはならなかった敵に敗北した歴史を知った時。


 残りの全てと引き換えにして、宴を終わらせることを決めた。


 後悔などない。


 あるとすれば、ただの一夜しか燃やせなかったこと。


 今ものうのうと生きる、数多の獣どもを焼き滅ぼせなかったこと。


(わたしがここで灰になっても、……きっと先輩が、決して止まらぬ火の矢になってくれる。(あやま)たず、敵を打ち滅ぼしてくれる。……ああでも)


 本当は、そんな生き方をしてる彼の荷物を、分けてほしかったのだ。


 湖畔の宴が終わったら、眠りから覚めたら、――取るに足らないという彼の物語を、話してくれると言っていた。


 あの年齢に見合わない、疲れ果てた影の理由を、聞かせてほしかった。


 エミリエンヌは、生みの母との青春を語ってくれると言っていた。


 セレスティーネは、おそろいの真っ赤なドレスを仕立てるのだと言っていた。


 約束を残して、帰らずの道を往かねばならない。


(さよならなんて、言えない。……謝ることなんて、もっとできない)


 産みの母が、ニュクスが、ネメシスが、プランケットの父母が、姉が、――アリアの愛した人たちが、どれほど自分に愛をかけてくれたか、知っているから。


 こんな場所で終わると知っていて、誰が愛しただろう。


 アリアが与えた分よりも、もっと深く、多く、たまに息ができないくらいの愛を注がれて、これまで生きた日々はどの一日を切り取っても、優しい黄金色に輝いている。


(でも、わたしは自分勝手だから、その思い出があるから往ける。この黄金を握りしめてさえいれば……たった一人でも、寂しくても、怖くても、最期まで……奈落の底まで、歌いつづけられる)



 エリュシオンの愛し子を焼き尽くして執行された、膨大な権能。


 境界を揺らがす煙に、波に、そして無数に打ち込まれた弾丸、火砲の繰り返しによって。


 ――決して綻びぬ六角形に、亀裂が走った。

お読みいただきありがとうございます!


改稿により文字数が増えたので分割しました(2023/5/27)

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作者ピクシブアカウントはこちら→「旋律のアリアドネ」ピクシブ出張所
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