第72話 さよならを告げない
真っ白い月の、煌々と輝く晩だった。
首と手首を戒めた鎖を曳かれ、地下牢から引きずり出されたアリアは、――この夜数日ぶりに、外の空気を吸い込んだ。
(……糸杉の匂いがする)
血に満ちた鼻孔に、冷たい木々の香りを吸い込む。
ウサギ狩りの会場は、伯爵邸の広大な庭園だった。
いつもの客よりさらに豪華絢爛な装束を身に着けた仮面の客たちが、晩餐の準備が整ったテーブルに着席している。
給仕が饗するのは、血のように赤い飲み物とレアステーキ。
「お集まりの紳士淑女の皆々様! 今宵は特別な夜でございます! とっておきの獲物をご用意いたしました……! さあさあ、説明するよりもご覧頂いた方が早い! ――ほらっさっさと歩け!」
手錠を強く引かれ、よろめいたプラチナブロンドの少女の瞳は、黄金。
「おおおお! 宝石眼!?」
「あ、あれを好きにして良いのか!? 腕を切り落としてぞんぶんに血をすすっても!?」
「卿はなんと慎み深いこと……! わたくしはあの目をティアラに仕立てたいわ!」
「どうぞどうぞ! 狩りの勝者には生殺与奪が委ねられます!」
獣どもの浅ましい鳴き声は、今のアリアには届かなかった。
ただひたすら、はるかな遠い場所に耳を澄まし続けている。
「ではでは~、早速! ウサギ狩りのルールを説明いたします! どうぞ新鮮な肉をお楽しみいただきながら、しばしお耳を拝借……!」
金の瞳が、中天に昇る真白い満月を見上げた。
連日拷問を受け、魔力を垂れ流している小さな体は、ぐるぐるとその周囲を回りながら、一歩ずつ死の淵に近づきつつあった。
――だから見えた。
(……あれが)
頭上の星月夜を覆う、ハチの巣のような正六角形の膜。
アリアとニュクスたちを隔てる、魔法斜断魔術式の姿。
正確無比でありながら禍々しい障壁が、数えきれないほどに折り重なっているのが、確かに見えた。
確認できたなら、もう用はなかった。
(これ以上獣たちに、人語を喋らせる余地はない)
「エリュシオン。……あなたの愛し子は死にかけよ」
アリアの記憶は、かつて温かな声が教えてくれたことを覚えていた。
『リオンダーリはね、そうなんだよ』
不死鳥を倒した晩。
初めて魔法が使えたことを褒めてほしくて、遠い調べが聞こえたことを師に明かしたら、困ったように笑っていた。
『絶体絶命の瀕死状態に陥ると、あっちのほうからリオンダーリに手を伸ばしてくる。エリュシオンもリオンダーリを愛しているから、まあ贔屓だね……』
「ハチの巣みたいな壁ごときに、遅れを取るつもり? この世の境すら超える手のくせに、意気地なし」
「……おい! 勝手に喋るな! いま殺すぞ!」
宴の客へ説明している最中だというのに、あろうことか奴隷が喋る声が聞こえ、伯爵は激昂した。
壇上を降りると、手にムチを持って大股でアリアのもとへ向かう。
「貴様らに許されている声は、悲鳴と命乞いだけだ!」
金の眼は、果てなき耳は、迫り来る鞭もそのしなる音も、歯牙にも掛けない。
「わたしの息を、声を、目を見つけて。手を伸ばして――今すぐ!」
――久方ぶりの波の音が、聞こえ始めた。
少しかすれた竪琴の音。
幾重にも反響する、いずこから響く自分の声。
遮断術式を無理にくぐり抜け、朽ちかけたエリュシオンの手が、アリアの叫びを握りしめた。
「!?」
振るった鞭が弾き返されて、伯爵は目を剥いた。
歌えない者には見えぬ大きな手が、小さな体を包み込んでいる。
「……ゴホッ……」
アリアの鼻からボタボタと鼻血が滴り、咳とともに血が混じる。
目元にはくっきりと濃い死相があらわれ、額には冷たい脂汗がびっしりと浮かんでいたが、口元は弧を描いた。
「……掴んだ」
ティルダは食い入るようにその横顔を見つめ、――セレスティーネは、ポケットにしまわれた鏡の中で、頭を掻きむしっていた。
『嫌……嫌……、嫌……! どうか、お願いだからやめてよぉ……!』
不老長寿の珍味に舌鼓を打っていた客たちは、会場の後ろで、何かが起きていることに気がついた。
だが、――すでに魔法は彼女を見つけていた。
「来てくれてありがとう、エリュシオン。さあ……残り滓みたいな命しかないけれど、わたしの全てを、持ってお行き。――代わりによこしなさい。裁きの、権能を!」
はるかな外洋の果て。
翠の彗星がいくつも沖に落ち、海鳥が飛び立ち、波打ち際に白い羽をまき散らした。
乾いた風が鳴り、竪琴の響く至福者の島。
この島が、たった一人の愛し子の命令に逆らうことはない。
最初は、春の終わりの夜。
プランケット邸の外壁を、蔦を伝ってよじのぼった小さな女の子が、錠の下りた窓に開けと命じた時から。
エリュシオンは、そのまっすぐな声の命ずるところに従うことを定めた。
今も、――決して望んでいなくても。
「……」
キリリ……とゼンマイを回した。
――ドッ!
夜闇に満ちた空間に、黄金の炎が走った。
炎の中から顕れたのは、巨大な天秤と大剣。
裁きの女神アストライアの持ち物である。
どちらも黄金色に輝くそれは、主人の傷ついた両手を煩わせることなく、大人しくアリアの左右に控えた。
教わっていない極歌が、脳裏で旋律を奏でだす。
歌うために、少女の唇が開かれた。
細く長く、息を吸う。
一音、声にするたびに、――身体の奥から、途方もないものが引き出されていく感覚があった。
尽きかけの生命がさらにその量を大きく減らしていく。
鼻血がボタボタと首元まで滴り落ちる。
視界が白く明滅し、頭が割れるように鳴り、心臓が引き絞られて痛む。
膝が何度も地面に崩れ落ちそうになる。
(諦めさせようとしたって……無駄!)
おのれを生に引き留めようとする何もかもを、アリアは傲然と睨み返した。
(わたしは、戦いたいの……! ――勝ちたいのよ!)
遮断術式を超えて、魔法を使う。
それはエリュシオンが自ら手を伸ばすという、自分にしかできないことだ。
条件が瀕死であることも、その状態で極歌をうたえば到底、命がないことも、考えてみなくてもわかっていた。
(わたしにしかできない……! 誰ひとり、代わりになんてなれない! この獣たちと、戦えるのは! 勝てるのは! ――わたしだけなの!)
だから、もっと奪っていい。
足りないのなら最後の一息まで、魂のしっぽの先まで。
(そうすれば、きっと)
この身に流れる血が、かつて敗れた獣ども。
たとえこの一夜だけであったとしても、やつらに打ち勝つことができる。
(きっとそれが……この長い夜を照らす炎になる。この役立たずの身を種火にして、獣を焼き尽くし、わたしの家族の行く末を照らす光になる!)
死を前にしてなお、完璧に調和した歌の二重螺旋は、闇の中、どこまでも果てなく伸びた。
火花が弾け、灼熱の歌が小さな身体を飲み込みゆく。
それでも歌は止まない。
正確無比な調律が狂うこともない。
権能が、その全貌を顕わにしようとしていた。




