第70話 犬に相応しい声を上げよ
昔馴染みの片翼をむしり、その返り血をつけたニュクスがエリサルデの別邸に戻ると、――ぼうぜんと立ち尽くしたプランケットの者たちがいた。
「アリアが……いなくなった」
憔悴した顔のフレデリクが、掠れた声で告げたその瞬間。
ニュクスから膨れ上がった怒気は、昼間のそれが脅しだったのだと悟らせるのに十分だった。
「――なぜ、目を離した。お前はあの時、なんと約束した」
答えによってはこの場の者を全員焼き尽くす――と、左手に炎を纏うことで言外に悟らせた問いに、冷たい汗を流しながら、フレデリクは「ひたすら……ぼくの落ち度だ」と固く目を閉じた。
「ランスロットさまに、自分がちゃんと連れて行くからと言われ、兵を監督するよう諭され……、アリアを任せて、離れてしまった」
「!」
ひどく懐かしい名を聞いて、ニュクスの脳内に、無邪気な誘いがよみがえった。
――組み手をしよう! 本などいつでも読めるではないか。それに引き換え、友との時間は一刻千金だ。さあ、行くぞ!
強く頭を振って、無意味な幻影を追い出した。
ついでに、のぼった血も強制的に冷ましておく。
「……ランスロットはどこに?」
「それが……ぼくが気づいた時には、早馬に乗ってすでに去ったあとだった。厩番が言うには、怪物の急襲を皇宮に知らせるのだと言っていたと」
「……」
『ニュクス、ヒキガエルの解析が終わったよ! いま転送する』
ピアスが振動し、左目の視界にネメシスから共有された監視映像が映し出された。
それを早送りで確認したニュクスは、見覚えのある面立ちをした筋骨隆々の男が、幼い少女を容赦なく蹴り上げ、嘲笑する様を見て、ギリ……と奥歯を噛み締めた。
――かつては、友と思っていたことは否定のしようもない。
アンブローズらしからぬ、豪放磊落な性質。
むしろイリオンの民に似たその性格は、共にいて心地よかった。
いつもニュクスを連れ回しては、大口を開けて笑っていた。
広大な皇宮で孤独を感じていた、晴れた夏空に似た少年。
(だが――かの一族は、裏切る)
思い出すら踏みにじられた怒りが、色を変えた虹彩を熱くした。
(兄のみならず、お前もか……! ランスロット!)
「過ぎたことを言っても仕方ありません。今はとにかく、あの子の行方を探します」
「あ、ああ! だが、本当にぼくが迂闊で、申し開きのしようも……!」
「アンブローズ相手なら、出し抜かれるのも無理はない。やつらはこの上なく巧みに、人を欺く」
あの人並外れた殿下ですら、真実を見抜く眼を持つ兄ですら、例外ではなかったのだから。
「グウェナエル卿。夫人。ぼくは一秒が惜しい。行方を最もよく知るであろう者から、すみやかに聞き出したい。許可をいただけますね?」
「……」
それが誰のことを示しているのか、――わざわざ自分たちに許可を取るような相手とは誰なのか、気づかない二人ではなかった。
エミリエンヌは眉根をきつく寄せて、「……本来の身体の持ち主は、無実よ」と言った。
「今もきっと、アリアと一緒にいるわ。かどわかされた妹の身を案じて、胸を痛めている。それを理解していて?」
「もちろん。ぼくも、あの子が姉と決めた令嬢を損なうつもりはありません。用があるのは、寄生している方です。――ご心配なく。痕が残るような傷は負わせませんよ」
言いながらきゅっと革の手袋をはめた少年を見て、元より許可を求めていたわけではないことを悟り、エミリエンヌはため息を吐いた。
「……許可するわ。さっさと吐かせて、あの子たちの行方を追いなさい」
聞くが早いか、ニュクスの左手がくるりと何かを引き寄せた。
「連れてこい」
+++++
セレスティーネは、いつになく上機嫌で、鼻歌まで歌いながらくつろいでいた。
異変が起こったのは突然だった。
何かに強く引っ張られたように、左耳に激痛が走ったのだ。
「いッ!? い、痛い痛い痛い痛い!」
「セ、セレスさま!?」
主のけたたましい悲鳴に、リクハルトは血相を変えて駆け寄ったが、セレスティーネの耳は容赦なく彼女を部屋の外へと引きずり出した。
「何!? 何なの!? い、痛い……! ――何なのよお!」
耳を抑え、わめきちらしながら小走りで駆けていく令嬢の姿は、奇行と言ってよかった。
目にしたテセウスは果実水を手にしたまま、呆気にとられて、ぽかんと口を開けた。
彼は、疲れて寝入ってしまったらしいアリアの枕元に、歌を歌わせるなど無理をさせた詫びも込めて、彼女のお気に入りだというレモンジュースをそっと置こうとしていたのだった。
セレスティーネがバタバタと足をもつれさせながらたどり着いたのは、父である国境伯の部屋。
一人でに扉がバン! と開かれて、荷物のように床に投げ出された。
「ひぃッ……何!? 何なの……!?」
怯えながら顔をあげて、最初に目に入ったのは、よく磨かれたストレートチップの革靴だった。
部屋の真ん中に置かれた肘掛け椅子に腰かけているのは、年端も行かない少年。
見覚えがある。
だが、どこで見たのか思い出せない。
セレスティーネが名を知らないということは、攻略対象ではないことは確かだ。
少年は組んだ足の上に肘をつき、――背筋が寒くなるような、冷たい笑みを浮かべた。
「ずいぶんとご機嫌のようだったな。――寄生虫」
「……ヒッ」
バタバタと足音を響かせたリクハルトが、「セレスさまッご無事で……!?」と、国境伯家当主の部屋にノックもせずに飛び込み、少年を見て全身を硬直させた。
「きッ、貴様がなぜここに……!?」
「伏せ」
「!? ――ぐぅッ」
リクハルトを見ることなく、少年は左手の人差指を地面に向け、短く声を発した。
犬にするような、ぞんざいな命令。
しかしセレスティーネの侍従の身体は、抗えない強い力に押さえつけられ、したたかに床へ叩きつけられた。
「!? ウウウ……バウッ! ……バウッ!? ワン! ワン!」
「犬は犬らしく、虫は虫らしく。よかったな、お前の喉に似合いの声だ」
ほんの一瞬で何かの魔術をかけたのか、リクハルトは恐怖に満ちた表情で犬そのものの鳴き声を上げ、少年は目を細め、優しげですらある声で言祝いだ。
その様を見て、セレスティーネは慄然とした。
――リクハルトは、原作では凄腕の暗殺者として、ヒロインの命を狙うはずだった。
この身体に憑衣してすぐに彼を確保したのは、対人においては攻略対象随一を誇る、その戦闘能力を頼りにしたからだ。
(……し、知らない……こんな……! リクを簡単に下せるキャラクターなんて……!)
「さて、ぼくは急いでいる。アリア・プランケットを人狩りに引き渡したのはお前だな」
「……!」
黒いまなざしに見下ろされて、セレスティーネは唇を引き結んだ。
白状する気など毛頭ない。
だって、悪いことなどしていないから。
(どうしてわたしが、こんな罪人みたいに詰問されないといけないの? この男、顔はいいけど性格は最悪だわ! わたしにこんな真似をしたら、攻略対象者たちが黙ってないんだから! 見てなさいよ、カントループに入ったら、必ず探し出して断罪してやる……!)
だが少年は「ああ、別に答える必要はない」と面倒くさそうに嘆息しただけだった。
「もう証拠は挙がっている。ぼくが聞きたいのは、どのマンハントに引き渡したのか、だ」
「しっ、知らないわ! マンハント!? 何よそれ!? このわたくしがそんな怪しい人たちと関わりがあると……!?」
「球」
少年が人差指をはじくと、突然、セレスティーネの腹部に違和感が生じた。
なにか、まるで空気のボールを飲み込んだような――
「跳ねろ」
「!? う゛ッ――うげええええッ!」
視界が白くなるほどの激痛。嘔吐。
腹の中で球体が跳ね回り、口から、鼻から、夜会で食べたものがドボドボと吐き出された。
「止まれ」
「げえぇぇッ……! オエッ……ゼェ、ゼェ……!」
責め苦はわずかな時間だったが、セレスティーネは目を見開いて、滂沱の涙を流していた。
(ひ、ひどい! ひどすぎる……! どうしてこんなひどいことができるの!? まだ、小さな女の子じゃない!? そこの国境伯夫妻も、なんで黙ってるのよ! 娘が悪党にいたぶられているってのに……! やっぱり、悪役令嬢の親だから冷酷なんだわ! ――クズ! 最低!)
「ほ、ほんとに、わたくしは何も知らないの……っ! こんなことされたら、死んじゃうわっ……。お願いだからひどいこと、しないで……?」
「球、――回転しろ」
「ヴッ! ぼえええええ……っ!」
庇護欲をそそるはずの涙目で見上げても、その黒曜石のような双眸は、泥に沈んだようにぴくりとも動かない。
穴という穴から体液を流しながらのたうち回る自分を見るまなざしは、まるで死にかけのセミを眺めるようだった。
「止まれ」
「ゼェ、ゼェ……ゲボッ……ガハッ……! ひっ……ひぃいぃ……! もうやめてえええ……」
――セレスティーネの皮を被った存在は、心からの恐怖を覚えた。
この世界に生まれて初めてのことだった。
己とそう変わらぬ年齢。
端正な容姿。
極めて高度な術式を操る、類い稀なる才。
攻略対象であったとしてもおかしくない条件。
だが、知らない。
情報にない。
この世界のことは全て知っているはずなのに。
(知らない。知らない知らない知らない! こんな痛いことがあるなんて……こんな怖いやつがいるなんて、知らない!)
「グウェナエル卿、失礼します。……!?」
令嬢の奇行を念のため追いかけたテセウスが目にしたのは、――地面に倒れ伏した少女と、傲然と足を組んで見下ろす少年。
信じがたいことに、少女の両親もその場に佇んでいる。
何が行われているのか見当もつかないが、いたいけな少女を寄ってたかってひどい目に遭わせているのだということは、ひと目でわかった。
「お、おい! きみ、淑女に何をしている!? 正気か!?」
(まあ、そうなるよな……)
ニュクスが無言で左手を真一文字にふるうと、テセウスの身体が壁に縫い付けられた。
ついでに、唇もしばらく上下を合わせておくことにする。
「!? ンーッ! ンーーー!」
「申し訳ない、皇太子。急いでますので。――球、跳ねろ」
「うぶっ……ぼげええええッ! うげっ、げえええええ……ッ!」
「そろそろ思い出してきたか?」
砂場で遊んでいる子に、楽しいか? と尋ねるような声音で訊く。
「虫では質問も忘れてしまっただろうから、もう一度尋ねてやる。――どこのゲス野郎に、あの子を売り渡した?」
セレスティーネは、夢にも思わなかった痛みと恐怖に、早々と心が折れていた。
「ハァ、ハァ、ハァ……! ち、血と灰の……神、聖、団……!」
偽セレスのざまあ回です。
本人が自分の罪深さを認識していないので、まだまだかゆいところに手が届かないかと思いますが…!
すかした敵が「うげえっ!」とか無様にやられるのが大好きなので、書いててとっても楽しかったです(ジョジョファン)




